People In The Box『Kodomo Rengou』を作るとき、この音楽が10年後どう聴かれるか、という射程を念頭に置いていた。だからといってそれは作り手がコントロールできることでは毛頭ない。できることといえば、不純物を取り除いて、どのような場面においても機能する強度でいれるよう、根源で繋がっていようと苦心することでしかない。

 100年前の小説ヘルマン・ヘッセデミアン』に現在性を見出しながら読んでいる今、もっと射程圏を伸ばしたいと強く思う。

 思索と洞察がそのうちに軽やかな投影を始めるはずだ。いかにツルッとした表面でも、その内界が無数の何かでうごめいている、そういうものを作らなくては意味がない。

 初めてふれた素晴らしい音楽、小説、映画をもう一度体験するときに、2周目の冒頭に再びふれたとき特有の感動がある。それにおそわれるとき、その作品が自分の人生や人格に影響を及ぼしていくことを体感として知るような気がする。

(2018.03.12)

Brad Mehldau『After Bach』

Brad Mehldau『After Bach』

 元からこのピアニストの左手は、音楽のなかで右手の活躍に甘んじたりしない、構造を形づくるなかで最大限の動きを果たしている印象があった。率直に対位法を感じさせる演奏だったから、バッハをテーマにするというのは、取っておいたカードをついに切ったかのような感じがする。

 アルバムの作りは表面的にはかなりコンセプチュアルに見えるけれど、内容は軽やかだった。昔からこの人にとってコンセプトという縛りは、あくまでただのデザインなんだろうなと思う。自作曲とバッハの平均律クラヴィーアが交互に並んでいるという曲目。

 バッハを弾くということはピアニストにとって特別なことなのではないかと想像する。あまりに記号化されていて、弾き手の思想や意志がむき出しになるのではないかと。ここでのメルドーの気負いを感じさせないバッハは、安直すぎるいいかただけど凄くジャズっぽく感じて、それが凄く面白いと思った。いつもの対位法を感じさせるプレイで実際にバッハを弾くとジャズっぽいというのは、あまりにできすぎているけれども。ジャズっぽいといっても、正確にはインプロヴィゼーションをしている時のメルドーとオーバーラップするという感じ。もともとこの人のグルーブってパルス感が強いから、典型的ではないんだなと思った。

 それに加えて、印象が昔から変わらない。プレイがいつも若々しく歳をとらない。というのも、今作の自作曲シリーズを聴いていて、00年の『Places』を思い出した。あれもガチガチのコンセプト作だったけれど、それでもコンポジション含めて、想起される印象は一貫している。

 それにしても、つくづく自己プロデュースが巧妙というか、またそれが嫌味ではなくて聴き手への配慮として機能していてすごい。今回、バッハという記号に絡めとられていないところがなんとも心地よかった。何より自作曲が凄く好きだった。最後の全体のコンセプトからするともはやこじつけに思えるドビュッシー/坂本龍一風の曲も含め、単純に作曲家としての静謐なブラッド・メルドーが聴ける作品というふうにでも取れると思う。とはいっても、そこが自作曲だけだったとしたら同じように聴こえるかというと、そういうわけでもなくて、バッハという記号を使ってこそ良さが引き立つというところも、よくできていると思った。11曲目の「オスティナート」めちゃくちゃいい曲だと思う。

(2018.03.12)

たよりない能動性

 僕のような80年代生まれの人くらいまでだと、音楽をたくさん聴いたことがある人がえらい、みたいな風潮は、かつては確かにあったように思う。たくさん聴くにはまず本や、当時まだ黎明期でデータベースとして貧弱なインターネットで知識を蓄えねばならない。むず痒い話、かくゆう僕もかつてはCDを2000枚以上はゆうに持っていたと思う。個人のレコード屋や通販でないと手に入らないものも少なくなかった。わざわざ電車に乗って遠くまで赴いたり、常識では考えられないような金額を投入したりもする。それでも入手できない聴けないものだってあった。通販で予約しても、3ヶ月後に確保ができなかったと連絡がありキャンセルになることもあった。情報も限られていて、名前だけは知っているが詳細がわからないものもざらにあった。ろくな情報もないなかで、なるだけ廉価に手に入れようと、暇さえあれば中古盤屋を巡っていた。猛スピードで自転車をこぐ汗でTシャツが背中にはりつく感触は今でも憶えている。今思えば、あれが青春だったと言い切ってもいいくらいに楽しかった。とはいっても、音楽を聴くためだけに行われるそのような体を張った涙ぐましい労を思えば、えらい、とはいわないまでも、ねぎらうくらいには讃えてもらっても全くかまわない気がする。

 結果として数多くの音楽を情報として知り、聴いたからといって、それ自体が幸せなことかというと、必ずしもそういうわけではないというのは事実だ。人間関係において、交友関係や人脈が広いことが幸福に直結しないことと、とても似ていると思う。数によって養われるものも当然のようにあるとは思うけれど、それも一定数以上になってくると、個人の指向の領域ではないかと思う。今になって思えば、喫煙者のチェインスモーキングみたいなところもあった気もする。そのものの味がどうこうではなく、そうしないと落ち着かないという、習慣というか、惰性というか。今では音楽は、これも人との出会いと同じで、巡り合わせによる感動がほとんどを占めるという結論に至っている。

 優れたものや、誰にとっても心地よいと思えるものも、もちろん良い。自分から能動的に探しにいって、前面に現れる情報から導き出して得た満足も、もちろんわるくない。けれども、想像を超える感動はほとんどないことに気づく。音楽で膝から崩れ落ちるような感覚を、人はよく忘れてしまう。

 他方で、例えばなんの気なしにつけていたラジオから、なんの変哲もない音楽が流れてきて、いたく感動することがある。それまでどこでも聴けていたような音楽が、そのときは何か違ったように、耳から体に澄んだ水のように浸透していくような感覚。

 その違いを、ただ環境の差や、能動/受動の表面的な話にしてしまっては勿体ない。そのときの感性のあり方の違いが、聴かれる対象が関与しないうえで、反応の差を生み出していることに注目したい。

 状況として、自発的に音楽に出会おうとするときというのは、無意識に前提を条件づけていることが多い。聴きたい音楽の形をある程度具体的に想像して、その形にうまくはまるものを探している。近年は思ったような音楽が見つからない、というストレスはほとんどなくなった。サブスクリプションをはじめとするインターネットでは膨大なデータの統計から、類似と大勢が見傚しているものを提示してくれる。こちらの要求が具体的であればなるほど供給はあまりある。

 一方、後者の場合というのは、必ずしも音楽を欲していたとは限らない。ラジオから流れてきたなんの変哲もない音楽で感動できる心理状態というのは、もしかすると音楽ではなく、音楽のような何かでもよいのかもしれない。例えばキッチンの換気扇から聞こえてくるカラカラ、サラサラという音であったり、風が吹いて葉擦れが窓の外から聞こえてきたり、そういう意図しないものであったとしても、感じることがある感性の状態なのではないかと思う。特定のものを求めてはいないけれど、受容体を通じて入ってくるものをそのまま受け入れられるオープンな状態。

 その違いをまえにして、人間が自分自身で欲しているものを自覚できるという前提でいることは、そもそも無理があるという事実を再確認する。もちろん自発的に音楽を探して聴くことが大好きだけれど、その感動というのはすでに知っている感動をなぞるにとどまっている。自分の変化や状態によって受け取り方は違うという、あくまで些細な楽しみである。同時に、自分の想像の及ばない感動をやはり欲している。これまで幾度も味わってきたそれは、後者のような「感性が開いた」状態のときに向こうからやってくるのだろうと思っている。

 だから、インターネットによって均一に音楽が開かれ、膨大な作品に等しくアクセスできるという、20年前には考えられなかった、狂喜乱舞していてもおかしくはないような状況に、僕が現在なんの感慨も抱いていないというのは、そういうことだと思う。環境という要素は自分の欲する感動とはほとんど関係がなかった。

 振り返って思えば、ここ数年はそういう人体実験を無意識にやってきたような気がする。音楽を作る仕事でありながら、能動的に新しい音楽を探すことをしていない。けれども感性は開きっぱなしだった。結果、新譜/旧譜にかかわらず、自分でが想像できなかったような、でもこれが聴きたかったというような音楽は、向こうからやってきた。あるときは朧げな記憶から、あるときは友人の言葉の静かな熱量から、あるときは不思議なジャケットアートから。そういうことなんだと思う。何が正解で何が間違い、というのは自分のなかにしかない。

 ところで、感性が開いた状態では、それは音楽でなくてもいいのかもしれない、というのは凄く重要な考えだ。文脈から離してみると、前後を逆にした方が自然かもしれない。それは「〇〇でなくてもいいのかもしれないと思えるような状態は感性が開いている」というふうに。

 それは境目を意識することに関係してくる。どこからが音楽で、どこからが音楽でないのか。どこからが映画で、どこからが映画ではないのか。どこからが洋服で、どこからが洋服でないのか。僕はそれをいつも考えてしまう。

 意図しているものと、意図していないものの違いというの容易い。しかし、強い風が開け閉めするドアの音を音楽とするかしないかは、それを受け取る感性に依るわけだから、そうとは断言できない。仮に人間が作るものと、そうでないもの、ということに分類したところで、人間の意識というものの疑わしさ、及び無意識の広大さが反映されることを思えば、作品が全て作者の意図であることはありえないし、意図をこえて一人歩きする余地のあることが創作の素晴らしいところでもある。結局、対象の問題ではなく、自分自身の感性が生活のなかで受容体として開かれていることが、遍在する好きなものを自分へと引き寄せるのだと思う。

(2018.03.04)

認知

 ある対象を、そうと知らず平面視してしまっていないかどうかは、絶えず見る角度を変えたり、実際に触れてみないとわからない。それができないときは、そういうものだと思う。平面とわかって受け取ってしまえばいいし、奥行きを想像する余地を楽しめばいい。

 散歩していると鳥が、一昔前の電話回線を使ったインターネットの接続音のような微細な抑揚で断続的に鳴いている。姿は見えない。それが実在するけれども死角にいてみえない鳥の鳴き声なのか、頭のなかで勝手に鳴っている音なのかは、判別のしようがない。

 情報として提供されたものにそれと知らずに信頼を寄せる。本当に南極があるのかどうかさえ、僕は確かめたことがないのだ。心許ない感覚器官を振りまわして、会話をする。アンバランスな集合体が片足でとるバランスが、いつまでも続くとは、誰も保証することができない。

 その綱渡りのスリルを、それはそれでわるくないかもな、という気に最近はなっている。

(2018.03.02)

連帯しない連帯

 強迫的に孤独を忌み嫌う言説の行き着く先というのは、ただただ身の毛のよだつような惨状である。ここ10年での急速に加速する孤独を忌避する社会の傾向というのは、小さな連帯を増やして短絡的な安心を生み出し、境目のない交流をかえって分断し、ないもののようにみせている。

 かつては豊穣な可能性と思われたインターネットのとりとめのなさは、人間の認識の表層のキャパシティに合わせて切り分けられ、市場原理に則った供給に溢れている。ネットですくいあげられた欲求が反射して現実世界へと帰結していく様子は感心するほどスムーズでおぞましい。

 想像力を試すことは、現代では勇気のいることになってしまったのかもしれない。一世紀前の作家の書いた言葉の勇敢さを目の当たりにすると、なおさらそう思う。想像力は孤独を必要とする。孤独は想像力を引き寄せる。

 どんな言葉であれ、額面どおり信用するというのは、とても危険なことであることは間違いない。語義は発生源の数だけ存在するわけであるし、正確さを求めてひとつひとつ精査して読みとっていくというのは人の為せる業ではない。その途方のなさにはどうしても竦んでしまう。

 僕のここ数年の言語化離れは、すべての言葉を自分自身の辞書に置き換えて受け取ることに、ただ疲弊しただけだったのかもしれないと、今更おもう。

 言語は僕にとってはツールではない。便利なものでもない。具体的な膨大さを、抽象的な細部に置き換えていくだけの技術である。それがなにを意味するのか。言語に意味を求めることに、なんの意味があるのか。

 意味とは、事象における瞬間瞬間の翻訳に過ぎない。だとすれば、意味が意味するところを少しずつ、そしていつかは濁流のように放出してみたいと今日はおもう。

 言葉を重ねれば重ねるほどアップデートされていく自分の辞書を生成すること。そしてその足場から、他人や世界の辞書を外郭から眺めてみること。それはどんな感じなんだろうか。

 歌を歌うとき、身体的なエネルギーが放出されて、からっぽになる感覚になることがある。それは決してわるい気はしない。それになんの意味があるのかはわからない。意味がないからそれを続けられるのかもしれない。

 いつか何かをわかるときがくるのかどうか、たぶんこない気もするけれど、そこにとどまるという選択肢を、細胞がやんわりと拒否しているのである。  いつも柔らかな拒否であるので、神経が反射を起こす気配もまだなく、おびただしい事象が言語化されないままに、風の強い秋の雲のように猛スピードで頭上をかすめて通り過ぎていく。

 舞踏家がトランス状態にはいったときのような状態で生きていくというのは、どういう感じだろうかと想像する。それは言語にたよらない思考というのがあるのかどうかという問いかけに似ている。わからない。

 優しくもなければ、急き立てるわけでもない、けれども確かに舞う風のなか、案山子が静止している。土は凍ってつめたい。