マスタリング終了、ピープルとは

 18日、ピープル新作のマスタリング。チェック用のラジカセで出来上がったばかりの作品を通して聴いたが、かなり疲れた。詰め込みすぎたかもと思っているが、メンバーはそんなことはないようで、気持ちよくて眠くなったとさえ言っていた。それはとてもいいことだ。  できあがった新作の内容によって、前回のシングル『Calm Society』もまた別の意味あいで聴こえてくるような、そういうものになった。そうなるといいなと思いながら作ったわけではあるのだが、実際にそう仕上がってしまうと、自分自身でぞくっとする。  ピープルというバンドの、2012年の『Citizen Soul』以降、曲のアプローチにしろ、歌詞にしろ、なんらかのスタイルを拒否することは一切ないが、同時に決して踏襲もしない、傾向としてある音楽シーンの新しい方法論や流れ(とされてるもの)に脇目もふらないという在り方はとても気に入っている。というか、それが自分たちの現代を象徴するバンドとしての唯一の在り方だと思っている。それは普通と思ってやってはきたけれど、まわりを見渡すとこういうバンドはなかなかいないなと手前味噌ながら思う。  音楽が、作品が独立した点として存在すること以外に大切なことなんてない。それが結果的に文脈に回収されていったりすることは問題ない(僕らの場合は今のところほとんどないが)。しかし音楽家が自ら作る前からそれが連なりのどこに属するかを意識して作るなんて、全体でみると画一化されていくだけでどんどん音楽がつまらなくなる。  一例として、ピープルが革新的なことをしているかというと、それはわからない。いつも新しいことをしようとして、そうしているが、その「新しい」が一般的に期待されている要素ではないのは間違いない。  僕は新しい音楽が大好きだが、新しい音楽はもうすでに古い音楽である。これは言葉遊びでも理屈でもなんでもなくただの事実で、新しいという言葉が、存在するものにしか効力がないという性質をただ意味している。  僕にとっての「新しい」とは次の瞬間、次にタイプするキーを叩く指の動きであり、浅くも深くもない呼吸の次のターンの呼気であり、歩き出すときに先に出す方の足の動きである。つまり、ほとんどすべての人のと同じ生活のなかに新しさはある。その現在性にできるだけ肉薄しようと試みること新しさを生み出すと思っている。そのパワフルなプロセスが形式を生み出すならそれでいい。しかしそれは生まれた瞬間もう古い。そういうことだ。それはそもそも音楽にとってはあたりまえのことがそう認識されなくなったと僕がことさら感じているに過ぎないのかもしれない。けれど新しいから形式になる、という順序を忘れると虚しいことになる。これこれこういう形式だから新しい、というのは抜け殻のなかにセミが戻っていくように滑稽だ。  音楽は脳をはじめとする身体器官から聞こえる沸騰する湖のようなところから聴こえてくる。考えたり、感じたりしたことが複雑な計算式のように変貌を遂げ僕の視点をぐんぐん離れ物語を成していく。歌詞をつくるプロセスで、頭のなかでは自分のいない未来の光景があったり、行いうる限りの非人道的行為が行われていたりもする(現実ほど酷くはないけれど)。そういうプロセス以上に音楽にとって大切なことはないと思っている。音楽っていうのは生活そのものだと思っているが、僕にとっては道具やアイテムでないことは確かだ。ともかく新作はこれまでと同様。まわりを見ずに作った。まだアナウンスされていないピープルの新作を僕は今夜、現代的で新しいと胸を張って言える。集合体の中心にいないからといってそれがど真ん中ではないと誰がどうして言えるだろうか。とにかくたくさんの人に聴いてほしい。

(20150525)