作曲家としてのジェフ・バックリー
ジェフ・バックリーは自作曲を多くは残さなかった。レナード・コーエンの「Hallelujah」を初めとして、彼を有名にした曲の多くはカバー曲やジャズやブルーズのスタンダードである。 単純にレパートリー量が膨大であるとともに、カバーした曲は多岐にわたる。ボブ・デュラン、ニーナ・シモン、レッド・ツェッペリン、、ヴァン・モリスン、レナード・コーエン、ベンジャミン・ブリテンの歌曲、MC5、ザ・スミス、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、エディット・ピアフ、アレックス・チルトン(ビッグ・スター)、ジェネシス、スクリーミング・ジェイ・ホーキンス、ビリー・ホリデイ、バッド・ブレインズ。ざっと挙げただけでも、雑多というよりもむしろ音楽の歴史を網羅しようとしているかのような懐の広さを誇っている。
90年代半ばにシンガー・ソングライター/オルタナティブミュージックのアーティストとして活動した音楽家のなかで、カバー曲をメインとして表舞台へ登場したアーティストはジェフ・バックリーくらいのものだと思う。なにしろデビュー盤として発売されたライブEP『Live At Sine-E』は4曲中2曲がカバー曲であり、没後にリリースされたEPと同じライブのほぼノーカット版2枚組のデラックス盤では21曲中16曲がカバー曲である。 ファーストアルバムである『Grace』にしても、10曲という決して多くはない収録曲のうちの3曲がカバー曲である。27歳というデビュー時の年齢を考えると、曲のストックがなくて仕方なくカバー曲をやったというのは考えにくい。旧時代のシンガー然としたオールドファッションなアートワークといい、当時のCD収録時間の平均に比べても曲が少ないところは明らかにジェフが憧れた時代のレコードへのオマージュであるだろうし、それに伴ってカバー曲の割合に関しても、自作曲がメインであることがまだ当たり前でなかった時代から次第にそうなりつつある中間あたりのバランスを狙っているように思えなくもない。
1994年にリリースされた生前の唯一の作品『Grace』というアルバムは、端的にいってとても謎めいている。疑う余地もない名盤とされているが、何がどのようにしてこの作品を名盤たらしめているのかを言葉にするのはとても難しい。特異なヴォーカリゼーションとか、感動的な「Hallelujah」が収録されているからとか、そういった理由はどれも大きな木のひとつの枝に過ぎないことは間違いない。 初めてこのアルバムを聴いてから15年以上聴き続けているけれど、この作品の耳を離さない魅力がどのようにして成立しているのか、未だにわからないが故に、ずっと聴き続けているような感覚もある。
例えば音像の独特さひとつとっても不思議だ。一聴するだけではオーソドックスで少し懐古的でもある何の変哲も無いロックにも聴こえるが、当時のプロダクションの主流であった重厚さは感じられず、羽根のような軽さ一歩手前の清廉さがアルバム通して貫かれている。かなり前面に配置されたドラムを初め、主役となる歌などひとつひとつの音が生々しく聴こえることもあってオーバーダビングは少なく思える。 しかし実は絶妙なミキシングによっておこった錯覚で、アレンジや音作りはかなり手が込んでいる。クアイアにストリングス、オルガンにヴィブラフォン、パーカッションにギターノイズや物音ノイズなどバンド以外のダビングものがたくさん背景に配置されてある。リバーブほかのエフェクトに関してもかなり繊細な設定が行われているように聴こえる。 オーバーダブやポストプロダクションの狙いというのはほとんどの場合は明快である。音に厚みを加えて派手にすることだったり、和声を補強するであったり、曲毎に変化をつけるだったりするが、この作品におけるオーバーダブやエフェクトは機能的というよりももっと複雑な意図が働いていることがわかる。 例えばタイトル曲の「Grace」という曲の終盤、曲が一旦の盛り上がりを迎えた後、ひとときのクールダウンを経て、再び渦巻く炎のようにグルーヴしていく場面。歌が演奏にバトンを渡すようにロングトーンになった背景にうっすらとストリングスが切り込んでくる。そのまま壮麗に大団円を迎えるかと思いきや、慎ましやかなストリングスをかき消すようなフランジャーの変調した音が、突然立ち上がってくる。フランジャーがどの音にかかっているのか僕の耳ではわからないくらいの、まさに電子的ともいえるエフェクト音が別の楽器の演奏のように周期的な変調を鳴らす中、バンド演奏はお構い無しにグルーヴを増していったあげく、ドリブルしていたボールを優雅に放り出すように曲が終わる。 オーソドックスに聴こえる音像のなかでそういった過激な仕掛けをして、しかも曲を損ねるどころか奥行きに聴かせてしまうそのアレンジを、どのように思いついたかは僕には知るよしもない。しかしこれは単なる一例でよくよく聴けば、アルバム『Grace』にはこのような野心的なアイデアが全体に通して転がっている。音楽に関してのこの冒険的な一面は一般的に言われるようなジェフ・バックリーのイメージからはごっそり抜け落ちている気がする。 そしてこのアルバムの謎というキーワードに繋げて話を戻せば、ジェフ・バックリーの自作曲というのが僕にとっては不思議でならない一番の謎だった。ここもあまり語られることが少ないところだ。
曲を多く残さなかったからといってジェフ・バックリーが作曲に重きを置いていなかったかというと、その反対で、むしろ作曲という行為に真摯であり過ぎたゆえに量産できなかったのだろうと思う。
彼の曲は一聴、つかみどころがない。抽象的である。わかりやすいメロディーもなければ同じ構成を繰り返したりすることもない。たとえば『Grace』からのシングル「Last Goodbye」はメロディーこそ感傷的で親しみやすいけれど、この曲の構成はA-A-B-C-D-E-Fとなっていて、一度展開したら戻ってはこない。しかし聴く分に印象として奇抜さは一切なく、一週間の月火水木金土日という並びくらい自然である。 他にもA-A-A-A-A-A-B-B-Aだったり、A-B-C-A-B-C-D-D-D-Dだったり色んな進行の曲はあるけれど、総じて全く自然で奇矯さとは無縁である。同じパートでも少しずつ違っていたりするが、それが流れをスムーズにしたりする。こういった曲の進行はいわゆる形骸化したロック・ポップスよりも、むしろ映画や小説に近いと考えると腑に落ちる。
ジェフの作曲には大きく分けてふたつのパターンがある。 ひとつは誰かと共作するパターン。代表曲の「Mojo Pin」「Grace」はライブハウス時代に組んでいたGods&Monstersというユニットの相方のギタリストのゲイリー・ルーカスが下地を作ってそれにジェフが歌を乗せるというやり方。正式な音源は出ていないけれど「No One Must Find You Here」という超名曲もある。 ライブでの定番曲「Dream Brother」はジェフ・バックリー・バンドのリズム隊とのセッションによって作られた。 「So Real」「Vancouver」「Sky Is A Landfill」「Mood Swing Whiskey」「Demon John」は最後に加入したバンドのギタリストのマイケル・タイと共作している。このマイケル・タイとの曲は特に抽象的で進行も和声も分析するのが無意味に思えるほど収束しない、けれどもそれぞれ独自のムードを纏っているという代物で、展開も映画/小説的である。聴き飽きることがない。
そしてもうひとつのパターンは、ジェフ単独で、それもどうやら聞くところによると詩先で作るというやり方だ。 ファンは誰でも知っていることだが、同じタイトルの同じ曲であっても、歌詞の一部、メロディー、構成、アレンジがライブの度に変わっていく。その変化は数多のブートレグやyoutubeで確認することができるが、そこで変化を聴いていると実際に演奏するなかでそれぞれの要素を調整しながら、しっくりくるポイントを探ることで完成に近ずけていくという実験のように聴こえる。映画にたとえると、すでに存在する歌詞が映画の脚本で、それに合わせて俳優としてどう演技するのか、どういった編集で物語を進めるか、そこを時間をかけて丁重に探っているのがわかる。 それは時折脚本のほうに手を加えて書き換えるときもある。先ほど例に挙げた「Last Goodbye」も以前は「Unforgiven」という別の曲として演奏されていたことが知られているが、聴きくらべれば物語の落とし所が最終的に変わっていることがわかる。
没後にリリースされた『Sketch For My Sweetheart The Drunk』という作品のディスク1は、一度は完成したものの本人はお蔵入りにしようとしていたといわれているアルバムである。ここには10曲中カバー曲は1曲しかない。ここには作品の性質上『Grace』のような手の込んだサウンドデザインはないが、前作から一歩前進して自分の作曲を確立しようと足掻くドキュメントとでもいえるような曲が収録されている。意識的に自作曲で勝負をかけようとしている意志が垣間見える。情報量は『Grace』よりも少なくシンプルで、人の体が動くようにナチュラルだが、よくよく聴けば奇妙で美しくグロテスクでユーモラスだ。 先日発売された『You and I』という未発表音源集(10曲中自作曲は2曲のみ)の中に「Dream Of You And I」という曲が収録されている。これは時期的には『Grace』の直前らしく、スケッチ段階のものである。これがこの約3年後、セカンドアルバムとして作られていた『My Sweetheart The Drunk』の非公式なデモ音源として流出したなかに「You & I(Guitar Version)」という曲として再び現れる。それは一節を除いては歌詞が大きく変わっているが、曲としての体はなしており、ムードはそのまま引き継いでいる。けれど、フックに当たる部分以外はもはや別の曲だといっても遜色ないくらいの違いだ。 それから極めつけは、前述した『Sketch For My Sweetheart The Drunk』に「You & I」として一応の完成体が収録されているが、なんとというフック以外の歌詞、メロディーは全部取り替えられているどころか、歌以外は単音のドローンになり、ノーリズムの独唱へと驚愕の変貌を遂げている。 ここまで違うと普通、曲とはなんなのか、どの要素において曲の同一性を担保するのかという問題になってくる。僕はここにジェフ・バックリーが多く曲を残さなかったことの鍵があると思っている。
おそらく彼にとっては、曲を作るという過程そのものが重要だったのではないかと思う。そもそも音楽において、その曲がその曲として完成するということはどういうことだろうか。 球根のような言葉がひとつあったとして、その想いに音楽を乗せていく。ここからは僕の経験を踏まえた推論である。時間をかけて丁重に形作っていくその間にも、作り手は人間として変化して当初の作り始めた頃に抱いていたその曲への印象にギャップが生まれてくる。そうするとそこでも元の言葉にも辻褄をあわせる為に手を加えようとする。そうすると自分が見方を変えることによって曲が勝手に成長していくという感覚になるが、そうなると愛着が生まれて曲を半ば擬人化してしまうことがある。完成というのは人に例えると生きたまま剥製にするようなもので、ここで完成だと線をひくよりは、この先の成長をまだまだ見てみたいと思ってしまう。その段階において、ジェフは完成ということにそれほどの価値を見出せなかったのではないかと僕は思った。 中途半端に曲の育っていくのをそこで止めるのは忍びないという気持ち。ましてや完成した曲ならば自分の曲ではなくてもすでに世界には満ち足りている。そうなれば自分が浴びるように聴いてきたカバー曲のほうが、演奏という行為へと心置きなく向かえたのではないだろうか。おそらく『Grace』のリリースまではそうであったと思う。 『My Sweetheart The Drunk』ではそこから現代を生きる作家としての第一歩を踏み出した形跡が記録されている。フツフツとした怒りをダイナミックで優美に消化する「Sky Is A Landfill」、冷めたR&Bが少しずつ熱を帯びて最終的に体温に到達するグラデーションが見事な「Everybody Here Wants You」、仄暗い静謐を描く「Opened Once」、 ミステリアスで気怠い「Nightmares By The Sea」、憂鬱を振り払おうとするようにユーモラスなビートが跳ねる「Witches’ Rave 」、民族音楽を思わせるミニマルなビートにジェフの朗詠が絡む「New Year’s Prayer」、眼差しが優しいゴスベルフォーク「Morning Theft」、急き立てられるようなビートと美しいメロディーが熱を帯びていき高みに到達する「Vancouver」、前述「You & I」。 ジェフ・バックリーの曲は生きている動物のようだ。歌詞の繰り返しも極端に少なく、同じパートでも毎回フレーズやコードまで違う。少しとっつきづらいけれど、一度好きになったら他人の人生のように気になってしまう。消費できない音楽ほどやっかいで愛しいものはない。ジェフの音楽を好きな人なら誰でもそれを知っている。 ジェフが演奏するカバー曲を聴いていると、飛び回る鳥のような音楽の持つ自由さを感じて胸のすく思いがするが、彼が自作曲を演奏するときはそれとはまたちょっと違った印象を受ける。たとえば巨大に立ちはだかるものにうまく同化して自分のものにしようと格闘しているようにみえる。ピチピチと飛び跳ねる曲の若さを手懐けようとしているような。もちろんそれはどちらも素晴らしい。
(20160319)