どんな言葉であれ、額面どおり信用するというのは、とても危険なことであることは間違いない。語義は発生源の数だけ存在するわけであるし、正確さを求めてひとつひとつ精査して読みとっていくというのは人の為せる業ではない。その途方のなさにはどうしても竦んでしまう。

 僕のここ数年の言語化離れは、すべての言葉を自分自身の辞書に置き換えて受け取ることに、ただ疲弊しただけだったのかもしれないと、今更おもう。

 言語は僕にとってはツールではない。便利なものでもない。具体的な膨大さを、抽象的な細部に置き換えていくだけの技術である。それがなにを意味するのか。言語に意味を求めることに、なんの意味があるのか。

 意味とは、事象における瞬間瞬間の翻訳に過ぎない。だとすれば、意味が意味するところを少しずつ、そしていつかは濁流のように放出してみたいと今日はおもう。

 言葉を重ねれば重ねるほどアップデートされていく自分の辞書を生成すること。そしてその足場から、他人や世界の辞書を外郭から眺めてみること。それはどんな感じなんだろうか。

 歌を歌うとき、身体的なエネルギーが放出されて、からっぽになる感覚になることがある。それは決してわるい気はしない。それになんの意味があるのかはわからない。意味がないからそれを続けられるのかもしれない。