本能と制度

 チェンナイ、マイラポールという地区の道路の交差点には信号がない。というか、僕が歩きまわった限りでは、都市エリア以外のインドでは信号に遭遇するほうが珍しい。日本に信号が多すぎるのもあるとは思うけれど、片側2車線ずつ計4車線(塗料が剥がれていて車線という概念も疑わしいが)の道路にはおびただしい車とオートリクシャー(三輪バイクタクシー)が走っていて、あきらかに交通量と見合っていない。クラクションの凄まじい騒音がけたたましく響きわたっている。どうやらクラクションは周囲に注意をうながすだけではなく、存在を周囲に伝えるということにむしろ重点がおかれているようだ。四方から車が、バイクが思い思いの方向を目指して交差点の中央にひしめいている。さらにその混沌とした流れのなかへ人が横断すべくわらわらと歩いていく。よくよく見れば驚くべきことに速度こそ出てはいないものの、信号のない交差点の渦は淀みなく動いている。カオス状態のようにみえて、滞りなく秩序が成立している。その場においては日常的な光景のはずが、僕にとっては壮観だった。

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 インドでのこの交差点における秩序は何に依拠しているのか。観察してみると、運転手も歩行者も、車や人の運動への反応が早いことに気がついた。運動体の速度と大きさを的確にとらえ、速度や進路をその都度素早く決定している。ひとつひとつを注意してよく見ているというよりも、全体の流れを感覚で包括的に認識しているようにみえ、ふとそれは魚の群れが水のなかで泳ぎながら決してぶつからない光景を想起した。交差点を眺めながら、動物的感覚によって秩序を保っているそのありように感激してしまった。もし日本で同じくらいの交通量の交差点に信号がなければ、どうだろう。おそらく混乱状態におちいってしまうのではないだろうか。

 信号というのはつまり制度で、容易に変更することは不可能であり、その変更不可能性による信頼によって、誰もが則るという前提で成りたっている。それで運転手や歩行者がそれを遵守する限り安全が保たれるわけだけれど、極端にいえば、それには信号の向きと色を判別するだけのわずかな感覚が必要なだけである。周囲に車や通行者にはたとえ注意をはらわなくとも、その場にいる人が信号の指示にしたがいさえすれば滞りなく交通が行われる。それが信号の仕組みであり制度化の目的だ。

 一方、信号のない交差点ではその場の人々が共通に頼りにできるものはなく、感覚できることを最大限に感覚し、またそのように感覚していることをお互いに前提として相互的に絶えず反応しなければならない。それは制度に甘やかされた現代人にとっては緊張を伴うことである。けれども裏を返せば、インドの交差点のように人々の感覚が開いた状態が常態化した場合はどうだろう。

 制度というのは予測不可能なことに対して脆弱である。例えば幼児がふらふらと交差点に迷い込んできたようなとき、その瞬間にも信号は存在意義を失ってしまうように、制度というのは予測不可能なことはそもそも前提に入っていない。しかし事実として、現実世界では予測できないことが実際に起こる。そのような状況、予測不可能なことが起こって頼るべき制度がなくなってしまった状況に直面したときに必要とされるのは、包括的に状況を瞬時に認識して周囲と相互的に反応すること、つまり動物的な感覚が開かれた状態であることだ。それは予測不可能性を許容し包摂し、さらにそれが常態化すれば、制度に依存しない秩序を同時に立ち上げることもできるのではないだろうか。

 インドの交差点をみてそのようなことを考え、興奮した。予測不可能なことに対してどう向き合うかという問題への大きなヒントの気がした。制度に依存しながら、もうひとつ別の思考のなかでは制度を乗り越えていく、そんなことを最近考えている。