ショスタコーヴィチ


Dmitri Shostakovitch | String quartet no. 5, opus 92 | Dudok Kwartet | 24classics.com

 

 ある朝、起きるとすでに一時限目が始まろうとしている時間だった。普段からさぼりがちだったまるでやる気のない中学3年生の僕は登校を早々にあきらめ、誰もいないリビングルームへと移動し腰を下ろしてテレビを点けた。耳に飛び込んできたのは禍々しく美しい音楽だった。ショスタコーヴィチ弦楽四重奏。何番だったのかは記憶にないけれど、音楽の教科書の片隅に申し訳程度に名前があった(はず)の変な名前の作曲家の音楽に、一瞬で魅了された。画面のなかで4人の外国人が取り憑かれたように演奏する曲は、とにかく危険だった。悪夢というには厳密で、具体的ななにかを述べているような怖さがあった。なにかの境目を曖昧にさせられるような強い力に捕らえられて、短くはなかったその曲が終わるまで、その場を離れることができなかった。

 その後、なぜか近所の本屋に在庫があったブロドスキーカルテットの全集を買い(当時8000円した)、その少し後でタワーレコードでキースジャレットの『24のプレリュードとフーガ』を買った。ショスタコーヴィチ入門として何を聴いていかわからず、あてずっぽうで、しかしなぜか強い確信をもって買ったものだ。今思えばキースジャレットのほうはホームラン級の当たりだったと思う。作曲の鮮烈さを伝える瑞々しい演奏と清廉な音響。

 人並みに色々な音楽が好きなつもりでいるけれど、近代クラシック(変な言葉だとつくづく思う)の作曲が連れて行ってくれる場所というのは格別に奇妙であると常々感じる。人類がみつけだした音階という概念を可能な限り駆使し、複雑化して、複合的な何かを立ち上げる。音階というのはとても厳密なものだ。ある高さのドの音はドの音で、他の解釈は許されない。ところがひとつひとつは厳密で具体的なものが作者の設計図に基づいて集合すると曖昧で抽象的な、固有の運動体となる。

 音階は生理に直接働きかける。数秒前の音の記憶を把持しながら奔流に身を任せるものの、最終的にそれは時間が過ぎてしまえばなにも生み出さない科学のように不気味で謎めいている。そこに人は、自分勝手に何かを見出してしまう。複雑な音階にはだまし絵のようにメタファーがひしめいている。それを自分の身体に引きつけて紐解いていく。僕がそういう体験を初めてしたのは、ショスタコーヴィチだった。


Shostakovich: Preludes and Fugues for Piano, Op. 87 - Prelude & Fugue No. 5 in D Major