【Q&A:最終回】
少し間が空いてしまいました。Q&Aは今回で最終回とします。答えられていない質問もありますが、これまでのいずれかの答えにはなんとなくかすっている算段ですので、ご容赦いただければと思います。
多種多様な質問をありがとうございました。結果的に皆さんの質問をきっかけとして僕自身が考えを言語化するよい機会にもなりました。ありがとうございました。
それではお答えしていきます。
波多野さんは科学についてどう思われますか。私は理系の出身で自然科学の研究をしていたため、科学が好きです。しかし世の中には科学を忌避するような方もいらっしゃいます。私の考えとしては、科学は道具として扱われることによって結果として悪い面が出てくることもあるが、大半の科学者は世の中を良くするために活動していると思います。科学の悪い面だけをとって、否定される様子を見ると少し悲しいです。
(tommyさん)
理系と文系という分類があるとすれば、自分のことを文系という自覚でこれまで生きてきました。学業において進路を選ぶようなタイミングが僕にはなかったにもかかわらず、それでもそういった自覚をもってしまうくらい、根強い分類ですよね。僕が自分のことを文系と自認したことにははっきりとした理由があります。数学が壊滅的に苦手だったからです(笑)。そんな消極的な根拠で自分を規定しなければよかったと思います。
というのも、今から10年くらい前にmaxという音楽/映像系の簡単なプログラミングソフトにはまって、パソコンの中でシンセやパッチを作るようになりました。実はピープルの『Citizen Soul』以降の作品では隠し味として必ずmaxで作った音が混入されています。そのプログラミングはまさに僕が苦手とするはずの理系の作業なわけですが、明快な因果関係を構築して出来上がっていく過程がとても楽しく、苦手意識から理系的なものを無意識に敬遠して生きてきたことを、つよく悔やみました。
また、あくまで個人的な印象ですが、文系の人は個性的な文章には長けている一方、理系の人のほうが伝わりやすく美しい文章を書くことが多いような気がします。思えば文章って記号のつらなりという意味では数式となんら変わりないわけで、道理であるのかもしれません。
そういうこともあって個人的には理系、および科学には悪い印象などないどころか、自分とは対極の分野といっても過言ではないと思っているので、むしろ畏敬の念に堪えません。研究者の友人の話などを聞くといつも楽しく、興奮しきりです。
ただ、たしかに現代において科学の成果というのは利権や市場原理は避けてとおれず、その過程で様々なこじれはあるのではないかと思います。表面だけをとって批判されるような場面もあるのでしょうね。
ところで、科学は根拠を必要とすると思いますが、極論それも結局のところ程度問題というのが事実なのではないかと素人ながら思ったりします。前提をどこまで遡るかというと結局人類には遡れる限界というのがあるわけだし、科学を否定するひとほど科学を盲信しているところがあるのではないかと思います。僕はどちらかというと科学の味方です。
そこでふとどうしても思い浮かぶのは、原子力発電所の存在です。原発のことを考えるには哲学のようなものが必要になってきます。制作者自身が制作物を消滅させることができないというのはただ事ではなく、結果的に発端から責任という考え方が除外されていたわけで、そこにはなにかしらの倫理が必要だったはすです。そして、おそらくそれを指摘するのは文系の仕事だったのだと思います。
具体的な経緯は詳しくないので上記の意見はほとんど素朴な妄想のようなものですが、学業においてのカテゴリは別として、現実の場において理系と文系が乖離しすぎるのはそれこそ理にかなってないな、と折に触れて思います。
愛、という感情を血の繋がった家族以外に持ったことがありません。他人に抱く「愛する」感情や「愛している」と感じる瞬間はいつ訪れるのだろう、もしかして一生訪れないのかもしれない。そんな気さえします。赤の他人を愛することは出来るのか不安です。波多野さんの思われる愛することとはなんでしょうか。
(ci-coccoi99さん)
僕の回答はまったくあてにならないことを断っておきます。というのも、僕が愛という言葉に重きを置かないようにして生きているからです。
歌詞においても愛という言葉はほとんど使いませんし、使ったとしても皮肉交じり、もしくは他人の概念としてしか使っていないはずです。「笛吹き男」「八月」くらい??※追記:他にも結構ありました。笑
愛は汎用性が高く、日常使われる場合、また僕の観察する限りでは依存や同一化、愛着の言い換えが主であるように思えます。もちろん、それはまったく悪いことだとは思いません。ただあくまで個別の状態なのだと考えているということです。
おそらく、僕は愛という言葉を使わない代わりに、と、そんなふうにこじつけるならば、敬意という言葉に重きを置いていると思います。愛というのは定義が曖昧なゆえに、主体の都合によって変化し、そのわりにあり方は一様です。一方で敬意というのは具体的でしかも多様です。優しさや気遣いが攻撃へと転化することもありません。
なので、ci-coccoi99さんは他人を愛せないかもしれないとお悩みということですが、愛というものを一度敬意という観点にすりかえてみるのはどうでしょうか。なにかしらの糸口がみつかるのではないかと踏んでいるのですが。
こればかりは、「おまえは愛がわかっとらん」と言われれば、ぐうの音も出ません(笑)。「愛は多様だろうが」という意見も、そうかもしれない、とも思います。
ただ、やはり言葉はときに呪いのような拘束力を発揮します。愛という言葉が苦しみを生むこともあると思います。用量用法は注意すべきというのが僕の考えです。
さて、以上をもちましてQ&Aは終了となります。それなりに時間を潰せる読み物となっていれば幸いです。
おつきあいありがとうございました。