『TOMOE 2019』終了

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 tacicaTHE NOVEMBERSPeople In The Boxによる3バンドで全国5箇所をまわったツアー、『TOMOE』が終わった。予想通りあっという間の5日間だった。

 10年前とくらべてみれば、現在にいたるまでに3バンド共変化し、近い出発点から全く違う枝葉をつけた。ライブも作品も、それぞれが絶妙なほど違う角度の表現をするようになった。10年という時間のなかでそれぞれ表現のフォーカスを探し続けた過程があり、その断面のようなものが最良の形で横一列に並んだ。それが2019年のTOMOEだったと思う。

 それぞれのやりかたで時代と向き合ってきた我々は未だに、再会の意味を確認するよりも早く次へと移動していこうとしている。

 尊敬する音楽家であり、大切な友人である、tacicaに、THE NOVEMBERSに、大きな感謝を。

 そして今回のTOMOEを見逃さなかった素晴らしいオーディエンスに、大きな感謝を。

 ありがとうございました。いつかまた。

ショスタコーヴィチ


Dmitri Shostakovitch | String quartet no. 5, opus 92 | Dudok Kwartet | 24classics.com

 

 ある朝、起きるとすでに一時限目が始まろうとしている時間だった。普段からさぼりがちだったまるでやる気のない中学3年生の僕は登校を早々にあきらめ、誰もいないリビングルームへと移動し腰を下ろしてテレビを点けた。耳に飛び込んできたのは禍々しく美しい音楽だった。ショスタコーヴィチ弦楽四重奏。何番だったのかは記憶にないけれど、音楽の教科書の片隅に申し訳程度に名前があった(はず)の変な名前の作曲家の音楽に、一瞬で魅了された。画面のなかで4人の外国人が取り憑かれたように演奏する曲は、とにかく危険だった。悪夢というには厳密で、具体的ななにかを述べているような怖さがあった。なにかの境目を曖昧にさせられるような強い力に捕らえられて、短くはなかったその曲が終わるまで、その場を離れることができなかった。

 その後、なぜか近所の本屋に在庫があったブロドスキーカルテットの全集を買い(当時8000円した)、その少し後でタワーレコードでキースジャレットの『24のプレリュードとフーガ』を買った。ショスタコーヴィチ入門として何を聴いていかわからず、あてずっぽうで、しかしなぜか強い確信をもって買ったものだ。今思えばキースジャレットのほうはホームラン級の当たりだったと思う。作曲の鮮烈さを伝える瑞々しい演奏と清廉な音響。

 人並みに色々な音楽が好きなつもりでいるけれど、近代クラシック(変な言葉だとつくづく思う)の作曲が連れて行ってくれる場所というのは格別に奇妙であると常々感じる。人類がみつけだした音階という概念を可能な限り駆使し、複雑化して、複合的な何かを立ち上げる。音階というのはとても厳密なものだ。ある高さのドの音はドの音で、他の解釈は許されない。ところがひとつひとつは厳密で具体的なものが作者の設計図に基づいて集合すると曖昧で抽象的な、固有の運動体となる。

 音階は生理に直接働きかける。数秒前の音の記憶を把持しながら奔流に身を任せるものの、最終的にそれは時間が過ぎてしまえばなにも生み出さない科学のように不気味で謎めいている。そこに人は、自分勝手に何かを見出してしまう。複雑な音階にはだまし絵のようにメタファーがひしめいている。それを自分の身体に引きつけて紐解いていく。僕がそういう体験を初めてしたのは、ショスタコーヴィチだった。


Shostakovich: Preludes and Fugues for Piano, Op. 87 - Prelude & Fugue No. 5 in D Major

合同ツアー『TOMOE』について

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 この写真をみて欲しい。ほぼ同年代の男たちが横一列に並び、定まっていない視線でこちらを見ている。まるで偶然に集められたかのように、誰一人として確固たる意志を持たぬまま撮影に臨んでいる。僕はこの写真がとても好きだ。

 『TOMOE』というイベントの歴史を正確に述べるのは難しい。tacicaTHE NOVEMBERSPeople In The Boxの3バンドの合同ツアーは『TOMOE』としては今回の開催が2度目だが、それ以前にもプレ『TOMOE』とも呼べる共演をかなりの回数重ねている。2008年にtacicaのツアーにTHE NOVEMBERSPeople In The Boxが帯同したのが最初の共演だった。

 かつて、10年ほど前、もし音楽シーンと呼べるものがあったとしたならば、我々は非常に近いところにいた。それなりの規模のイベントなどでは顔を合わすことも多く、おそらくリスナー層もずいぶん重なっていたのではないかと思う。僕はそう認識している。当時この3バンドがツアーをすることは別段不思議なことではなかった。意外な組み合わせでもなんでもなく、我々自身も敢えてというよりは、ある種の必然のなかで生まれた共演だと感じていたと思う。

 2011年以降、時代の変化が加速し、また互いのバンドの活動がそれぞれの方法で成長し変化していくなかで、「『TOMOE』をいつかまた」という気持ちはありながらも、その必然性は遠のいていった。その内の2バンドの共演は時折あったとしても、『TOMOE』実現までは至らなかった。ピープルに関していえば、一時期はワンマンしかやっていなかったくらい、半分は意図的に、もう半分は結果的にほとんど鎖国状態にあった(近頃はほどほどに開国中)。いずれ来るべき『TOMOE』への僕個人の思いとしては、例えるならば強いカードを残してはいるけれど、その使いどころが一向に巡ってこない、そんな気分でいた。

 ところが、そもそもそういったカードを切るようなゲームというのはどこにも存在していないことに、あるとき突然思い当たった。そこにはなにか打算のようなものがあったように思う。うまくいえないけれど、かつて必然としてそこにあったような連帯を再び演出したかったのかもしれない。しかし、この3バンドはもう、互いへの以前のような連帯を必要とすることはないだろう。その決定的な事実に気付いたとき、『TOMOE』への可能性が、むしろ強く開かれたように僕は感じた。

 7年半という歳月は決して短くはない。バンドがそれぞれの道を歩むなかで、すでに『TOMOE』のことを知らない人のほうが多いはずで、リスナー層も最早ほとんど重なっていないはずだ。むしろ意外に思う人のほうが多くても不思議ではない。だとすると、今度は時代の必然としてではなく、強い要請のない、あくまで偶然として改めて出会いなおす、そんな反転したロジックを用いて、いまこの時代に『TOMOE』は再生しようとしている。これが僕の考える今回の『TOMOE』だ。

 いま一度、冒頭の写真を見てほしい。どれも、これは偶然に出会ったというような顔をしている。少なくとも7年前、誰もがこんな顔で写真に写るような人ではなかったとおもう。我々は偶然出会った音楽家として、まったくそれぞれのやり方で鮮烈に音楽を演奏するだろう。ただ、それだけだ。僕は楽しみでしかたがない。

 

 

TOMOE 2019

tacicaTHE NOVEMBERSPeople In The Box

5/25(土) 仙台 CLUB JUNK BOX

5/31(金) 福岡 BEAT STATION

6/2(日) 梅田 CLUB QUATTRO

6/9(日) 名古屋 BOTTOM LINE

6/14(金) 東京 マイナビBLITZ赤坂

「Deeper Understanding」と「My Computer」

 Kate Bushが89年に発表した『Sensual World』に収録されている「Deeper Understanding」は、コンピューターを擬人化して向き合い、自分への深い理解を求めるという滑稽で切実な姿を淡々と描く美しい曲だ。


Kate Bush - Deeper Understanding (FULL AUDIO)

 その7年後の96年にリリースされたPrinceの『Emancipation』収録の「My Computer」という曲では、友人を探すためにインターネットを立ち上げるものの、実生活ではネットでの根も葉もない噂に戸惑うという内容。


My Computer

 人間とテクノロジーの歪な関係という似通った題材の2曲は、描写の入射角も違えば曲調や構造も違うとはいえ、2つの歌の主人公の温度感はぴたりと重なる。「Deeper Understanding」と対応関係ともいえるこの曲にコーラスとして参加しているのが、なんとKate Bushである。普段のクセを抑えたコーラスはあらかじめケイト・ブッシュだと聞かされていなければ気づかないほどだが、それでも極めて近い親戚関係のようなこの曲にKate Bushが参加した事実は、偶然ではなく少なくともプリンスにとってはハッキリと意図があったに違いない。

 どちらもアウトロに特徴があって、本編の感情が統合されず、保留されたまま引き伸ばされたような、そんな印象が続く。「Deeper Understanding」はまだ発展途上の技術へ不気味さを覚えているようなシリアスさがある一方、「My Computer」のほうは時代も進み現実に近くなっているだけ空虚さが強まった印象を受ける。

 このような微かではあるけれども明らかな音楽の共振は、それぞれに別の角度を与え、大きな奥行きをみせてくれる。

うさぎへの生成変化

 ぼくはうさぎを大変魅力的な動物だと思っている。そのことを友人に話したところ、犬との違いを訊ねられた。そのときは匂いが少ないとか発声しないとか、具体的な言及にとどめたが、それ以上の決定的に違う要素がなにかあるような気がしている。

 うさぎは犬や猫と比較すると、圧倒的に何を考えているかわからない。警戒心はあるが心を許していないというわけではない、興味はあるが積極的に関わりたいわけではない、という複雑な気持ちのありように自ら引き裂かれたように謎の動きをしたり、じっとしていたりする。あるいはそれもこちらの深読みにすぎないのかもしれないが、いずれにせよ、よくわからない。

 そうすると、犬や猫の感情表現のなかに人間に似たものを見出し、そこに同一化することで愛着を持つというメカニズムは自然と発動しにくく、人間の立場からの安易な同一化を拒否し、うさぎ性の保持によってのみ飼い主を魅了しているということになる。

 共感によって成立する関係と、そうではなくただ互いに異物として在るという関係。どちらもそれぞれに良いものではあると思うが、ぼくがうさぎの「同一化を拒否する」というありかたに「共感」してしまってもいるという、この入り組んだ事実が重要な気がする。同一化なき共感、その距離感こそが魅力であるとも言い換えていいのかもしれない。

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蔵出し未発表曲

 

 先日公開した『The Cheat』と同じ頃、2000年頃、19歳くらいに録った2曲。

 「Taking A Picture Of Invisible Thing」はリズムマシンとエフェクトペダルのみを駆使して録音した曲。「When The Ghosts Visit My Room From The Window」はギターとリズムマシンとエフェクトペダルを使用して録音した曲。

 先日の「The Cheat」も含め、いずれの曲も4トラックのテープMTRで録音しているのだけれど、これらの曲が今改めて聴いて新鮮さを感じるのは、宅録がPCに移行したいま、物理的にこういうジャンキーで暖かな音を作ることが難しくなっているからだろう。目指せば似たような音にはなるかもしれないが、全体の音色への配慮なく乱暴に録られたという経緯があって成立していることが重要。また今回公開した2曲に至っては、リズムマシンやエフェクトペダルは作られたときに意図された用途ではもはや使われていない。特に「Taking A Picture〜」は限られた道具の機能を想像力によって越えようとすること、むしろそれのみに注力されていて、面白い。ある意味で贅沢な創作だと思う。

 ひとまず、はるか昔の蔵出し音源放出はこれにて一旦終了。