ワンマン公演『灯台』について

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 ワンマン公演『灯台』が終了した。今月16日までは公演の配信をアーカイブ視聴として購入してご覧いただけます。
こちらより→20201209hatano.peatix.com

 今年1月に行った公演『身体の木 / 記憶の森』以来のワンマン公演。会場は同じく代官山晴れたら空に豆まいて。ブッカーの三浦さんと話し合って2ヶ月前に決めて1ヶ月前に発表するというスピード感だった。

 公演は結果的にコンセプチュアルなものになった。そもそもコンセプトというもの自体、テーマとは違って結果的に現れてくるものだという考えなので、どんな場合でも少なからず一貫性がうまれるのは必然的でもあり、いつもとさほど変わらないつもりではあったのだけれど、ひとつ趣向として演奏をはじめるまえにおおまかな概要をあらかじめ話したこともあって、聴き手の意識の置きどころをいつもとは違うところに誘導できたような気がする。

 内容は、「灯台」という曲を中心に、セットリスト全体をひとりの人物の内的な旅として表現するというもの。演奏の領域ではアコースティックギター、ピアノ、声だけというシンプルさに徹した。

 いま、僕にとってひとりでの演奏とは、抽象的で漠然としている感覚を、自分の身体を通過させて何かを立ち上げようとする行為で、それが歌による言葉を伴うにつれ、少しずつ音楽が質量を持っていく気がする。その質量とはたぶん、演奏者本人である自分自身や聴き手にとっての意味のようなものだ。それは共有するようなものでは決してなく、各々が自分に引きつけて違う意味として受け取るなにかだ。一瞬立ち上がって、すぐに霧散していくその質量を、僕はいつも確かめている。

 

灯台

1. 雨の降る庭
2. 青空を許す
3. 継承されるありふれたトラの水浴び
4. ある会員
5. 猛獣大通り
6. 裏切りの人類史
7. 灯台(旧:ぼくが欲しいもの)
8. 旅行へ
9. ハリウッドサイン
10. 同じ夢をみる
11. 初心者のために
12. 2006年東京、上空
13. 楽園(旧:色彩と帝国)
14. 無題
15. 水のよう

 

 2020年は晴れ豆に始まり、晴れ豆に終わる。1月の公演のときとはいろんなことが変わってしまった。場所は同じでも、空気が決定的に違っていて、別の現在がどこかで並行して走っているかのような錯覚を起こしてしまう。

 いま生きるこの現在を、場所を、配信として公開することができたのがなにかとても嬉しい。尽力してくれた前述の三浦さんをはじめとする晴れ豆スタッフの皆さん、音響の角さんに大きな感謝を。演奏者として、配信のアーカイブで演奏を観てもらえたらそれに勝る喜びはありません。

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EVH

 十代の頃に通っていた地方の小さな音楽スタジオには、ロビー兼バーカウンターのようなスペースがあって、練習の終わりにはそこでひととおり談笑して帰るというのが習慣になっていた。当時のバンドでは遅い時間に練習することがほとんどだったので、閉店過ぎてもダラダラとカウンターに居続けることもよくあった。

 そこの経営者のおじさんのひとりはちょっと偏った音楽観をもっており、僕とたいそう話が合わなかった。楽曲構造に興味がある僕の好きな音楽を「全然なってない、なにしろギターが全然歌ってない」と一蹴し、マイケルシェンカーやマウンテンのLD(かつて存在したレーザーディスクという映像メディアで、要はでかいDVD)を流しながら、「聴け、ギターが歌ってる」とのたまう、大変めんどくさい人だった。

 それはタメやビブラートを駆使して歌うようにメロディーを弾くギタリストが優れているという、それは考え方というよりももはや好みの問題でしかないだろうとその当時は心の中で僕もまた彼を一蹴していたのだが、リスナーとして成熟していくなかで、「ギターが歌う」という彼の言葉の意味を次第に理解していく羽目になった。

 彼のいう「ギターが歌う」というのはギターの弾き方で歌を真似るということではなくて、正確に翻訳すれば「歌を歌うくらいに自然にギターの演奏が脳(感情)に結びついている」ということだったのだろうと思う。ロックギター好きらしいロマンティックな表現をするからわかりづらいだけで、むしろ他のジャンルならば楽器習得の上では普通に目指すところというか、身も蓋もない言い方をすれば「脳→指」の反応速度の話でもあったのだろう。

 

 なぜか去年になって、突然VAN HALENを聴いてみようと思い立った。あまりに有名なアーティストだと好きな曲はいくつかあったりもするわりに、本腰を入れて聴いたことがないという現象はよく起こるけれど、僕にとってまさにそんなバンドだった。ひととおり聴いて、個性的な音像や独特のグルーヴやヘンテコな曲など、まあとにかくいろいろと凄いと思ったのだけれど、なによりエディの鮮烈なギタープレイは凄まじく、記号でしかなかったギターヒーローとしてのエディが実力のあるプレイヤーとして肉感をもって立ち上がってきた。めちゃくちゃギターが歌っていると思った。

www.youtube.com

 なかでもこの曲のギターソロのタッチはとんでもない領域へと手をかけていないと弾けないテイクだと思う。特に最初のソロ。音の立ち上がり、アーティキュレーション、トーン、そしてタイム。最初の2小節だけでもう正気かと疑う。
 譜面に落とせばあまりにシンプルなメロディーと、それに見合わない多くの情報量。これは当然考えてできることではないのと同時に、常にとんでもなく細かい解像度で音と接しているのだろう。
 あまりに好き過ぎて、この曲のギターソロだけで誇張なしで軽く100回は聴いたと思う。少し走ったり、少しつんのめったり、少しシャープしたりフラットしたりしながら連続していく表情豊かな演奏は何度聴いても全く飽きない。

 こんな数分に出会えるから、ほんとうに音楽は凄いと思う。

新曲「ある会員」リリース

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www.youtube.com

 4年ぶりの新曲「ある会員」をリリースしました。

 現在2枚目のアルバムに取り掛かっているのですが、専ら自らの技術と怠惰の問題で遅々として進まず、ひとまずこの曲を先行曲としてリリースしました。

 この「ある会員」という曲は今年1月のワンマンから演奏しているライブではすでにおなじみの曲です。

 個人的な感覚ですが、こういった寓意性の高い曲は現実との食い合わせに周期が発生するので、なんとなく早いほうが良いかもしれないという気がしたのも公開の理由です。

 音源で欲しいという方は以下のサイトBandcampでダウンロード購入もできますが、いずれアルバムには収録されますので、ご無理のないようお願いいたします(そして若干パワーアップする可能性もあります)。

 どうか楽しんでいただければ幸いです。

hatanohirofumi.bandcamp.com

音楽と人連載「夢遊調書」アーカイブ公開について

 2010年3月から2016年年3月までの7年にわたって、雑誌『音楽と人』で連載されていたコラムが、ウェブにて再び公開されることになりました。

 pdfでの公開というのが味わい深くていいですね。毎週月曜日に随時更新だそうです。

 ※公開は終了しました。

ongakutohito.com

 再掲にあたって7年分の連載を読み直してみましたが、そのヴォリュームもさることながら、思うことも少なくありませんでした。

 7年通じて筆致が若く、一度として文体が定まっておらず、読んでいてハラハラしますし、自己陶酔的な感じもあって、それもまた若さの特権と知りつつ、赤面する部分も多々あります。努めてユーモラスであろうとする姿勢が時折痛々しいことも・・・。

 なかには決定的に現在と考えが違うものもあります。これは省こうかと思いましたが、昔と今とで考えが違うことは人間として自然と思い直し、そのままにしました。

 初期の頃は妄想とも雑感ともつかない、アブストラクトなものを書こうとしていたのが、震災を境に少しずつ変わってきます。次第に論理的で哲学的な内容が増えてきます。この変遷は通して読んでみて、自分でもドキュメントとして興味深いものでした。

  後半では現状報告が増え、明らかにネタ切れ感というか、苦し紛れにひねりだしたようなものや、過去のコラムとほとんど同じようなエピソードが出てきたり(無意識だったので、今回読んで気づいて冷や汗が出ました)もして、出来不出来が激しいです。

 一方、前半や中盤あたりは、感覚的かつ鮮烈な内容に、正直いって背筋が凍りました(笑)。描写に次ぐ描写のイマジネーション想起の連続によるカットアップ手法的な面白さは、端的にいって才気がほとばしっているというか、こう言ってはなんですが、当時はほとんど神経症気味だったのだと思います。今では書こうとしても書けないものばかりです。

 今回、こうして初めてまとめて読み返したのですが、書いたことを忘れていた内容がほとんどで、自分でも驚きとともにかなり楽しんだのですが、特に印象的だったのは連載で唯一の前後編になっている「でんしゃをまって」という回でした。震災後しばらくたった頃、仙台でのオフ日にひとり仙石線の電車に乗って松島にいった時のことを回想した文章。帰りの駅のホームからみえる暗闇と底冷えのなかで、いろんなことを考えたことをありありと思い出しました。その当時の逡巡が、そのまま『Citizen Soul』の歌詞へと繋がり、現在に至るまでの思考の変化のひとつの転機として記録されていると思います。

 繰り返しますが、今ではずいぶんと考えが変わったものもあり、僕はどこかの別人のものとして読みました。同時に、時代は変わったのだと思い知らされる体験でもありました。

 連載終了時には書籍化の話も出たのですが、どうも意義や採算のバランスが取れず、編集担当の人と話して、止めておこうということになりました。

 というか、こんなに無軌道で自由で読みづらい連載を7年もさせてくれていた『音楽と人』には、改めて感謝の念に堪えません。この連載を書くときにつかった体力は、思考の筋肉として現在の僕に間違いなく蓄積されているはずです。

通信販売を始めました。

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 2016年に発売した1stアルバム『僕が毎日を過ごした場所』の通信販売を始めました。一般流通はおろか、配信もない、手売りのみで販売していたアルバムです。

tobushoukai.thebase.in

 実は2ndアルバムの発売に合わせて通販を開始しようとおもっていたのですが、制作が遅れに遅れており(まったくの個人的な能力の問題で)、空いた時間との兼ね合いもあって先行してショップをオープンすることにしました。

 なにぶん僕ひとりでの発送となるので、不手際もあるかとおもいますが、どうかお待ちください。

 オープン記念で希望者には先着で古本を、というキャンペーンを告知したのですが、そもそも数も少なく(それでも押入れをあさって増冊しました)、おそらくほとんどの方に行き渡らないことはもうすでに確実となっております。ご了承ください!

 また、こう言ってはなんですが、手放そうとしている本ですので、正直それほど感銘を受けたものでもありません(笑)。ときおり古典や誤って買った2冊目なんかもあって、それは当たりといえますが、某チェーンの値段シールが貼られたままの暇つぶしで買ったベストセラー、という大ハズレもあります。そこのところも重ねてご了承いただけたらと思います。

 

 『僕が毎日を過ごした場所』収録の「遠ざかる列車」の歌詞に「時は2020」という歌詞があります。以前から、具体的にはオリンピック招致が決まった頃から、2020年という年になにかざわざわしたものを感じていましたが、現実にはそれを書いたときの想像をはるかに超えて不穏な2020年が立ち上がっていることに、なんとも言えない気持ちでいます。どうか楽しんでいただけますと幸いです。

【Q&A:最終回】

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 少し間が空いてしまいました。Q&Aは今回で最終回とします。答えられていない質問もありますが、これまでのいずれかの答えにはなんとなくかすっている算段ですので、ご容赦いただければと思います。
 多種多様な質問をありがとうございました。結果的に皆さんの質問をきっかけとして僕自身が考えを言語化するよい機会にもなりました。ありがとうございました。

 それではお答えしていきます。

 

波多野さんは科学についてどう思われますか。私は理系の出身で自然科学の研究をしていたため、科学が好きです。しかし世の中には科学を忌避するような方もいらっしゃいます。私の考えとしては、科学は道具として扱われることによって結果として悪い面が出てくることもあるが、大半の科学者は世の中を良くするために活動していると思います。科学の悪い面だけをとって、否定される様子を見ると少し悲しいです。

(tommyさん)

 

 理系と文系という分類があるとすれば、自分のことを文系という自覚でこれまで生きてきました。学業において進路を選ぶようなタイミングが僕にはなかったにもかかわらず、それでもそういった自覚をもってしまうくらい、根強い分類ですよね。僕が自分のことを文系と自認したことにははっきりとした理由があります。数学が壊滅的に苦手だったからです(笑)。そんな消極的な根拠で自分を規定しなければよかったと思います。

 というのも、今から10年くらい前にmaxという音楽/映像系の簡単なプログラミングソフトにはまって、パソコンの中でシンセやパッチを作るようになりました。実はピープルの『Citizen Soul』以降の作品では隠し味として必ずmaxで作った音が混入されています。そのプログラミングはまさに僕が苦手とするはずの理系の作業なわけですが、明快な因果関係を構築して出来上がっていく過程がとても楽しく、苦手意識から理系的なものを無意識に敬遠して生きてきたことを、つよく悔やみました。

 また、あくまで個人的な印象ですが、文系の人は個性的な文章には長けている一方、理系の人のほうが伝わりやすく美しい文章を書くことが多いような気がします。思えば文章って記号のつらなりという意味では数式となんら変わりないわけで、道理であるのかもしれません。

 そういうこともあって個人的には理系、および科学には悪い印象などないどころか、自分とは対極の分野といっても過言ではないと思っているので、むしろ畏敬の念に堪えません。研究者の友人の話などを聞くといつも楽しく、興奮しきりです。

 ただ、たしかに現代において科学の成果というのは利権や市場原理は避けてとおれず、その過程で様々なこじれはあるのではないかと思います。表面だけをとって批判されるような場面もあるのでしょうね。

 ところで、科学は根拠を必要とすると思いますが、極論それも結局のところ程度問題というのが事実なのではないかと素人ながら思ったりします。前提をどこまで遡るかというと結局人類には遡れる限界というのがあるわけだし、科学を否定するひとほど科学を盲信しているところがあるのではないかと思います。僕はどちらかというと科学の味方です。

 そこでふとどうしても思い浮かぶのは、原子力発電所の存在です。原発のことを考えるには哲学のようなものが必要になってきます。制作者自身が制作物を消滅させることができないというのはただ事ではなく、結果的に発端から責任という考え方が除外されていたわけで、そこにはなにかしらの倫理が必要だったはすです。そして、おそらくそれを指摘するのは文系の仕事だったのだと思います。

 具体的な経緯は詳しくないので上記の意見はほとんど素朴な妄想のようなものですが、学業においてのカテゴリは別として、現実の場において理系と文系が乖離しすぎるのはそれこそ理にかなってないな、と折に触れて思います。

 

 

愛、という感情を血の繋がった家族以外に持ったことがありません。他人に抱く「愛する」感情や「愛している」と感じる瞬間はいつ訪れるのだろう、もしかして一生訪れないのかもしれない。そんな気さえします。赤の他人を愛することは出来るのか不安です。波多野さんの思われる愛することとはなんでしょうか。

 (ci-coccoi99さん)

 

 僕の回答はまったくあてにならないことを断っておきます。というのも、僕が愛という言葉に重きを置かないようにして生きているからです。

 歌詞においても愛という言葉はほとんど使いませんし、使ったとしても皮肉交じり、もしくは他人の概念としてしか使っていないはずです。「笛吹き男」「八月」くらい??※追記:他にも結構ありました。笑

 愛は汎用性が高く、日常使われる場合、また僕の観察する限りでは依存や同一化、愛着の言い換えが主であるように思えます。もちろん、それはまったく悪いことだとは思いません。ただあくまで個別の状態なのだと考えているということです。

 おそらく、僕は愛という言葉を使わない代わりに、と、そんなふうにこじつけるならば、敬意という言葉に重きを置いていると思います。愛というのは定義が曖昧なゆえに、主体の都合によって変化し、そのわりにあり方は一様です。一方で敬意というのは具体的でしかも多様です。優しさや気遣いが攻撃へと転化することもありません。

 なので、ci-coccoi99さんは他人を愛せないかもしれないとお悩みということですが、愛というものを一度敬意という観点にすりかえてみるのはどうでしょうか。なにかしらの糸口がみつかるのではないかと踏んでいるのですが。

 こればかりは、「おまえは愛がわかっとらん」と言われれば、ぐうの音も出ません(笑)。「愛は多様だろうが」という意見も、そうかもしれない、とも思います。

 ただ、やはり言葉はときに呪いのような拘束力を発揮します。愛という言葉が苦しみを生むこともあると思います。用量用法は注意すべきというのが僕の考えです。

 

 

 さて、以上をもちましてQ&Aは終了となります。それなりに時間を潰せる読み物となっていれば幸いです。

 おつきあいありがとうございました。

 

【Q&A:回答その6】

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 今日も質問にお答えしていきます。

 

歌詞を書くときに、ノートに向かって書いていますか?パソコンですか? また、心に浮かんできたことばが歌詞になるのでしょうか、それとも「よっしゃ歌詞書くぞ〜!」みたいな気持ちで歌詞を書こう、と思って書いていますか?

(もさん)

 

こんばんは。波多野さんは音から色や形を連想することはありますか?あるとすれば作曲される際にそれを意識して、音の配置や種類を決めたりしますか? SNS上で度々話題に上りますが、数字や文字に色が付いて見える、音を聞くと色や形が見えるといった「共感覚」について興味があります。 私は共感覚を持っていて、数字はとくにはっきり色が見えます。音楽を聴くと色や映像が思い浮かびます。ほとんどの音楽でそうなのですが、ピープルの曲はかなりはっきり色や形が見えると感じます。

(風の子さん)

 

楽しい楽しい機材についての質問です。 ご自身で思う『自分の音を象徴しているな』という機材は何ですか? ギター、アンプ、ペダル、鍵盤、もしかするとチューニング? 教えてください。

イソフラボンさん)

 

 あたりまえですが、世の中には歌詞を書いたことのある人と書いたことのない人がおり、なかでも歌詞を自発的に書こうという人はかなり少数派なのではないかと思います。

 実は僕は小学校高学年の頃、作曲をはじめるよりも先に、歌詞を作って遊んでいました。架空の曲がある前提で、ここがAメロ、Bメロ、サビというように歌詞カードの改行を真似て書きつけ、曲調を想像していました。いわゆるごっこ遊びのようなものです。内容がどんなものだったかはいまでは記憶にありませんが、たしか「苦しみの花から血が流れ」みたいな感じだったと思います。同じく遊びに興じていた友人が、サビで「この世の全てに毒がある」を4行繰り返したときは、これは過激な名曲きた、などと盛り上がったのを覚えています。意味はわからないですけどね。

 この経験が今に活きているかというと、ほとんど活きていないわけですが、最初に書いたのが詩としてではなく、歌詞だったというのはなにか因果を感じずにはいられません。

 僕は音楽があって初めて言葉が出てきます。もっといえば、触発されるする音楽を聴けば歌詞へと発展していくとっかかりが浮かんできます。それは光景だったり、言葉だったり、観念のときもあります。ただそれはかなりランダムで、なにか法則のようなものがあるわけではないような気がします。その時期に自分が考えていることや、過去に観た風景やらそういうものが、刺激されたり奥から引っ張り出されたり、繋ぎあわされたりされているような感覚です。だから、純粋に音に反応しているというよりも、相互的に引っ張りあっているような感じでしょうか。

 なので、歌詞がうまくできあがってこないときは、音楽に発展の余地があると考えて、曲やアレンジをもう一度さわります。そうするとほとんどの場合はうまくいきます。

 逆に書きたいことがあって歌詞を書こうとすると、うまくいきません。曲との乖離がおこるからです。曲に導かれて完成した歌詞が結果的に書きたいことになっている、というややこしい順番なのです。もさんの質問にお答えするならば、よっしゃ歌詞書くぞ〜、という気持ちではありますが、そこには自然に歌詞を誘い出してくれるようなよい音楽があることが前提です。

 そして、曲からの連想で歌詞を書くわけですが、おそらく僕の場合は風の子さんのおっしゃるような共感覚とは違うと思います。共感覚についての本も読んだことがありますが、あれはかなり具体的に結びつくんですよね。共感覚をもつ友人の場合は言葉のひとつひとつに色がついていると言っていました。作曲をする際、なんとなくのイメージはあるものの、それは色とか形とかではなくて、もっと大きな流れというか、時間的な連なりのなかに物語や要素を見出す感覚です。

 僕の場合、特に重要なのは和声感(コード)をどう展開していくかで、曲をつくるなかでそこを迷うのが最も楽しい時間です。ときには細かくさわるのですが、もはやどれも間違いではなく、嗜好の世界なんですよね。答えとして少しずれている気がしないでもないですが、イソフラボンさんの「自分を象徴している音は?」という質問には「和声の運び」とお答えします。

 ギターの音色も、自分の音っぽい音はあるような気がしますが、レコーディングでのダビングは別として、ライブでは和音の押し出しが強い音や弾き方に無意識的に近づけていく傾向にあり、機材どうこうではないのでは、というのが結論です。

 ちなみに、歌詞は昔は手でノートに書いていたのですが、殴り書き→清書→書き直し→清書の繰り返しが年々多くなり、資源の節約と効率化を図った結果、『Wall, Window』あたりからパソコンで書いています。

 

 

波多野さんは、将来に対する不安はありますか? だいぶざっくりした質問ですみません。 私は日本にずっと住んでいて、これからも日本に住みますが、最近思うのは、『これからもこの日本についていけるかな』ってことです。 時代の変化についていけるか、というか、うまく言えないのですが、だんだん住みにくく(生きづらく)なっていると感じます。 大好きな音楽やライブなど、素晴らしいこともたくさんあり、(今は厳しい状況ですが)、人生を楽しんではいると思います。 でも最初に書いたように、ついていけるんだろうか…という不安があります。 もしよろしければ、答えにくいかもしれませんが、回答をよろしくお願いします。

(まめしばさん)

 

 この数日、まめしばさんのこの質問にどう返答したものか、書きあぐねていました。

 おっしゃるとおり日本はほんとうに危ういと思います。世界全体が危ういともいえますが、日本の危うさは表面上みえにくいだけに、崩壊するときは一気にいくところまでいってしまうのではないかと思っています。その「危うさ」について、僕はうまく言語化することができません。とにかく、気持ちはよくわかります。

 People In The Box『Tabula Rasa』というアルバムには、「いきている」という曲が収録されています。お聴きいただければわかるかもしれませんが、いくつかの視点が共存しているあの作品のなかでも、少し異質な立ち位置にある歌詞の曲です。

 僕は東日本大震災をきっかけに、社会のなかにいる個としての自分と、政治経済で動いていく社会とのあいだに乖離を強く感じるようになりました。人のために社会があるという建前の裏で、社会のために人が、個が、犠牲になっていく世界の構造がある。

 その齟齬は、辻褄の合わなさは、確実に人間を苦しめます。社会のために、生活のために、という大義が最終的には裏切られることになるからです。

 「生きづらさ」という言葉、表現があります。かつては、生きていることへの承認が社会からなんとなく与えられていないように感じることを示す表現だったような気がするのですが、ここ10年くらいで、個々のナイーブさに起因する弱音のようなニュアンスにすり替わってしまいました。生きづらいのはその人が弱いからだ、というわけです。

 そんな言説を僕は疑わしく思います。絵に描いた幸せや理想の概念を共有するのは簡単で誰にでもできる一方で、苦しみや不安は個別的なものであり、共有することが困難で、その非対称性とでもいうべき違いは、後者を見えにくくするからです。

 非対称性の露骨な例をひとつ上げます。日本は裕福だと言われてきましたが、事実はそうではないことがわかってきています。それでも、誰もが今も日本は裕福なんだと考えており、にも関わらず、同時に自分だけが貧しいと考えています。そんなとき、全体としては裕福であるという言説だけがいきわたり、「自分だけが貧しい」という声は社会的にはないものとされてしまう、というのがここでいう非対称性です。集団心理として自分が例外であると自覚したひとは、ほとんどが声を上げることがなく、考えが共有されず、共有されないということは数として可視化されない状況を生み出します。

 こういったことは、他にも無数の例が挙げられると思います。正義や常識や倫理、いろいろな場面で非対称性は生まれ、共有できない側の声を無効化します。

 苦しみや不安を表明できないと人間は病みます。しかもその原因が社会を起因とするぼんやりとしたものであればなおさらです。そしてそれは共有できず構造上社会ではないものとされている。つまり、僕たちは弱いから生きにくいのではなく、生きにくい構造に生きているということの反証が困難で、だから生きにくい。そんな隘路にいると考えています。

 僕は『Tabula Rasa』という作品でこの社会への絶望を描こうとおもっていました。そしてそのためには非対称性のなかで消えていく声をすくいあげるために、また個別的な苦しみと後期資本主義社会の引き起こす病理をひとつに繋げる回路を作るために「いきている」という曲が必要でした。そこで描かれる個別的な苦しみというのは間違いなく僕自身の実感でもあります。

 個人的に、僕は今は絶望をみつめるときだと思っています。絶望するというのは、いいかえれば現状認識を新たにするということです。現状認識を新たにしなければ、現実に基づいて戦うことができないからです。僕たちは誰かの作った建前を真に受けすぎたように思います。歴史を振り返ると、暴力を暴力で解決する場面が多々ありました。しかし他方で、それ以外のやり方の戦い方を模索し、試行錯誤することもまた人間としてのプライドであり、芸術の隠れた力だと思っています。建前を破壊するのではなく、悪しき建前を融解する新しい建前を見出していく、その試行錯誤する過程にはよいこともあるのではないかと、せめてもの楽観として、そう思います。

 答えになっているかどうか怪しいですが、いずれにせよ婉曲したロジックが必要となってくる世の中だと思います。先はながいので、気楽にいきましょう。

 

 

はじめまして。 ぼくはエフェクター好きで、雑誌などで色々なミュージシャンの足元を見るのが好きです。 波多野さんの足元はしばらく変わっていないですが、中でもsobbatの3と4はピープルの曲の中やライブなど、どんな時に使いますか? sobbatのファズはぼくも所有しているのですが、バンドで使うとなると使い方が難しかったので。。 ぼくの経験不足かもしれませんが、波多野さんはファズとどう付き合っていますか?

(まきさん)

 

 僕も足元をみられているわけですね。すくわれないように気をつけます(つまらない冗談です)。

 僕はsobbatのオクターブファズが好きで、20年以上使っており、いまではボードの中に2つも入っています。レコーディングでも様々な場面で大活躍しています。中音域が増減するノブがたまりませんね。ゲインの可変域も広く、全てのノブの値で万遍なく動かしながら使っているペダルは他にありません。

 sobbatのファズがバンドで使うとなると難しいとのことですが、思い当たるとすれば、クリーントーンの音質です。まきさんの音は一般的にいう芯のある太い良質なクリーントーンではないですか?そうなるとレンジが狭い、そもそも音量が上がらないという現象が予想されます。僕の私感ですが、このオクターブファズはクランチはもってのほか、ドライブの一切ない、貧弱なクリーントーンかますと、ポテンシャルが最大限に発揮されます。

 とはいえ、クリーントーンを犠牲にしてまでファズにこだわるかどうか・・・そこは新たな悩みどころになるとは思いますが、ぜひ試してみてください。