【Q&A:回答その6】

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 今日も質問にお答えしていきます。

 

歌詞を書くときに、ノートに向かって書いていますか?パソコンですか? また、心に浮かんできたことばが歌詞になるのでしょうか、それとも「よっしゃ歌詞書くぞ〜!」みたいな気持ちで歌詞を書こう、と思って書いていますか?

(もさん)

 

こんばんは。波多野さんは音から色や形を連想することはありますか?あるとすれば作曲される際にそれを意識して、音の配置や種類を決めたりしますか? SNS上で度々話題に上りますが、数字や文字に色が付いて見える、音を聞くと色や形が見えるといった「共感覚」について興味があります。 私は共感覚を持っていて、数字はとくにはっきり色が見えます。音楽を聴くと色や映像が思い浮かびます。ほとんどの音楽でそうなのですが、ピープルの曲はかなりはっきり色や形が見えると感じます。

(風の子さん)

 

楽しい楽しい機材についての質問です。 ご自身で思う『自分の音を象徴しているな』という機材は何ですか? ギター、アンプ、ペダル、鍵盤、もしかするとチューニング? 教えてください。

イソフラボンさん)

 

 あたりまえですが、世の中には歌詞を書いたことのある人と書いたことのない人がおり、なかでも歌詞を自発的に書こうという人はかなり少数派なのではないかと思います。

 実は僕は小学校高学年の頃、作曲をはじめるよりも先に、歌詞を作って遊んでいました。架空の曲がある前提で、ここがAメロ、Bメロ、サビというように歌詞カードの改行を真似て書きつけ、曲調を想像していました。いわゆるごっこ遊びのようなものです。内容がどんなものだったかはいまでは記憶にありませんが、たしか「苦しみの花から血が流れ」みたいな感じだったと思います。同じく遊びに興じていた友人が、サビで「この世の全てに毒がある」を4行繰り返したときは、これは過激な名曲きた、などと盛り上がったのを覚えています。意味はわからないですけどね。

 この経験が今に活きているかというと、ほとんど活きていないわけですが、最初に書いたのが詩としてではなく、歌詞だったというのはなにか因果を感じずにはいられません。

 僕は音楽があって初めて言葉が出てきます。もっといえば、触発されるする音楽を聴けば歌詞へと発展していくとっかかりが浮かんできます。それは光景だったり、言葉だったり、観念のときもあります。ただそれはかなりランダムで、なにか法則のようなものがあるわけではないような気がします。その時期に自分が考えていることや、過去に観た風景やらそういうものが、刺激されたり奥から引っ張り出されたり、繋ぎあわされたりされているような感覚です。だから、純粋に音に反応しているというよりも、相互的に引っ張りあっているような感じでしょうか。

 なので、歌詞がうまくできあがってこないときは、音楽に発展の余地があると考えて、曲やアレンジをもう一度さわります。そうするとほとんどの場合はうまくいきます。

 逆に書きたいことがあって歌詞を書こうとすると、うまくいきません。曲との乖離がおこるからです。曲に導かれて完成した歌詞が結果的に書きたいことになっている、というややこしい順番なのです。もさんの質問にお答えするならば、よっしゃ歌詞書くぞ〜、という気持ちではありますが、そこには自然に歌詞を誘い出してくれるようなよい音楽があることが前提です。

 そして、曲からの連想で歌詞を書くわけですが、おそらく僕の場合は風の子さんのおっしゃるような共感覚とは違うと思います。共感覚についての本も読んだことがありますが、あれはかなり具体的に結びつくんですよね。共感覚をもつ友人の場合は言葉のひとつひとつに色がついていると言っていました。作曲をする際、なんとなくのイメージはあるものの、それは色とか形とかではなくて、もっと大きな流れというか、時間的な連なりのなかに物語や要素を見出す感覚です。

 僕の場合、特に重要なのは和声感(コード)をどう展開していくかで、曲をつくるなかでそこを迷うのが最も楽しい時間です。ときには細かくさわるのですが、もはやどれも間違いではなく、嗜好の世界なんですよね。答えとして少しずれている気がしないでもないですが、イソフラボンさんの「自分を象徴している音は?」という質問には「和声の運び」とお答えします。

 ギターの音色も、自分の音っぽい音はあるような気がしますが、レコーディングでのダビングは別として、ライブでは和音の押し出しが強い音や弾き方に無意識的に近づけていく傾向にあり、機材どうこうではないのでは、というのが結論です。

 ちなみに、歌詞は昔は手でノートに書いていたのですが、殴り書き→清書→書き直し→清書の繰り返しが年々多くなり、資源の節約と効率化を図った結果、『Wall, Window』あたりからパソコンで書いています。

 

 

波多野さんは、将来に対する不安はありますか? だいぶざっくりした質問ですみません。 私は日本にずっと住んでいて、これからも日本に住みますが、最近思うのは、『これからもこの日本についていけるかな』ってことです。 時代の変化についていけるか、というか、うまく言えないのですが、だんだん住みにくく(生きづらく)なっていると感じます。 大好きな音楽やライブなど、素晴らしいこともたくさんあり、(今は厳しい状況ですが)、人生を楽しんではいると思います。 でも最初に書いたように、ついていけるんだろうか…という不安があります。 もしよろしければ、答えにくいかもしれませんが、回答をよろしくお願いします。

(まめしばさん)

 

 この数日、まめしばさんのこの質問にどう返答したものか、書きあぐねていました。

 おっしゃるとおり日本はほんとうに危ういと思います。世界全体が危ういともいえますが、日本の危うさは表面上みえにくいだけに、崩壊するときは一気にいくところまでいってしまうのではないかと思っています。その「危うさ」について、僕はうまく言語化することができません。とにかく、気持ちはよくわかります。

 People In The Box『Tabula Rasa』というアルバムには、「いきている」という曲が収録されています。お聴きいただければわかるかもしれませんが、いくつかの視点が共存しているあの作品のなかでも、少し異質な立ち位置にある歌詞の曲です。

 僕は東日本大震災をきっかけに、社会のなかにいる個としての自分と、政治経済で動いていく社会とのあいだに乖離を強く感じるようになりました。人のために社会があるという建前の裏で、社会のために人が、個が、犠牲になっていく世界の構造がある。

 その齟齬は、辻褄の合わなさは、確実に人間を苦しめます。社会のために、生活のために、という大義が最終的には裏切られることになるからです。

 「生きづらさ」という言葉、表現があります。かつては、生きていることへの承認が社会からなんとなく与えられていないように感じることを示す表現だったような気がするのですが、ここ10年くらいで、個々のナイーブさに起因する弱音のようなニュアンスにすり替わってしまいました。生きづらいのはその人が弱いからだ、というわけです。

 そんな言説を僕は疑わしく思います。絵に描いた幸せや理想の概念を共有するのは簡単で誰にでもできる一方で、苦しみや不安は個別的なものであり、共有することが困難で、その非対称性とでもいうべき違いは、後者を見えにくくするからです。

 非対称性の露骨な例をひとつ上げます。日本は裕福だと言われてきましたが、事実はそうではないことがわかってきています。それでも、誰もが今も日本は裕福なんだと考えており、にも関わらず、同時に自分だけが貧しいと考えています。そんなとき、全体としては裕福であるという言説だけがいきわたり、「自分だけが貧しい」という声は社会的にはないものとされてしまう、というのがここでいう非対称性です。集団心理として自分が例外であると自覚したひとは、ほとんどが声を上げることがなく、考えが共有されず、共有されないということは数として可視化されない状況を生み出します。

 こういったことは、他にも無数の例が挙げられると思います。正義や常識や倫理、いろいろな場面で非対称性は生まれ、共有できない側の声を無効化します。

 苦しみや不安を表明できないと人間は病みます。しかもその原因が社会を起因とするぼんやりとしたものであればなおさらです。そしてそれは共有できず構造上社会ではないものとされている。つまり、僕たちは弱いから生きにくいのではなく、生きにくい構造に生きているということの反証が困難で、だから生きにくい。そんな隘路にいると考えています。

 僕は『Tabula Rasa』という作品でこの社会への絶望を描こうとおもっていました。そしてそのためには非対称性のなかで消えていく声をすくいあげるために、また個別的な苦しみと後期資本主義社会の引き起こす病理をひとつに繋げる回路を作るために「いきている」という曲が必要でした。そこで描かれる個別的な苦しみというのは間違いなく僕自身の実感でもあります。

 個人的に、僕は今は絶望をみつめるときだと思っています。絶望するというのは、いいかえれば現状認識を新たにするということです。現状認識を新たにしなければ、現実に基づいて戦うことができないからです。僕たちは誰かの作った建前を真に受けすぎたように思います。歴史を振り返ると、暴力を暴力で解決する場面が多々ありました。しかし他方で、それ以外のやり方の戦い方を模索し、試行錯誤することもまた人間としてのプライドであり、芸術の隠れた力だと思っています。建前を破壊するのではなく、悪しき建前を融解する新しい建前を見出していく、その試行錯誤する過程にはよいこともあるのではないかと、せめてもの楽観として、そう思います。

 答えになっているかどうか怪しいですが、いずれにせよ婉曲したロジックが必要となってくる世の中だと思います。先はながいので、気楽にいきましょう。

 

 

はじめまして。 ぼくはエフェクター好きで、雑誌などで色々なミュージシャンの足元を見るのが好きです。 波多野さんの足元はしばらく変わっていないですが、中でもsobbatの3と4はピープルの曲の中やライブなど、どんな時に使いますか? sobbatのファズはぼくも所有しているのですが、バンドで使うとなると使い方が難しかったので。。 ぼくの経験不足かもしれませんが、波多野さんはファズとどう付き合っていますか?

(まきさん)

 

 僕も足元をみられているわけですね。すくわれないように気をつけます(つまらない冗談です)。

 僕はsobbatのオクターブファズが好きで、20年以上使っており、いまではボードの中に2つも入っています。レコーディングでも様々な場面で大活躍しています。中音域が増減するノブがたまりませんね。ゲインの可変域も広く、全てのノブの値で万遍なく動かしながら使っているペダルは他にありません。

 sobbatのファズがバンドで使うとなると難しいとのことですが、思い当たるとすれば、クリーントーンの音質です。まきさんの音は一般的にいう芯のある太い良質なクリーントーンではないですか?そうなるとレンジが狭い、そもそも音量が上がらないという現象が予想されます。僕の私感ですが、このオクターブファズはクランチはもってのほか、ドライブの一切ない、貧弱なクリーントーンかますと、ポテンシャルが最大限に発揮されます。

 とはいえ、クリーントーンを犠牲にしてまでファズにこだわるかどうか・・・そこは新たな悩みどころになるとは思いますが、ぜひ試してみてください。