年月ということ

 ブログをこのTumblrに引っ越そうと思っているのだけれど、見納めのつもりでなんの気なしに昔のブログを読み返してみると、まあ過去の自分の痴態に悩まされ懊悩するというよくある展開になった。おそらくこのブログもいずれそんな対象になるのかと不安がよぎるが、もういい大人なのだから、当時よりずいぶんと注意深くなっていることを信じるしかない・・・。

 『Bird Hotel』を作り終えたときの投稿にこういう段落があった。 『ときどき、歌詞を作っていて、永い先の話、このままでは身が持たない、と思うことがある。

過去や未来の記憶、そして感情を総動員する作業は、とても身を切られる。

自分自身からこぼれる言葉に引きずり回され、ひとり取り乱してしまう。

しかし僕は生きるためにこれをしているのだ。

いつか、パンを焼くような心持ちで作業できるようになれればいいなと思う。

そのときには随分とスタイルも変わっているだろう。』

 若干の自己陶酔が目につき、客観的には笑えるが、自分としては幼稚さ丸出しの恥ずかしさを感じる文章ではある。これは苦しさに関して当時としては本心であり切実だった。そして興味深いことに、後半の予言に関してはその頃に予想していたとおりの方向にたどり着きつつあると思う。  僕には過去の曲、『Lovely Taboos』までの歌は、自分の感情を重ねることはすでにできなくなっている。それは良いことでも悪いことでもなく、演奏するときの距離感が違うというだけの話だ。むしろ気持ち的にフラットな今の方が昔の曲をその音楽が求めるように再生することができるようになっていると感じる。

 『Bird Hotel』の頃に歌詞の書き方を変えたいと思ってから現在まで6年かかった。やっと、という感慨はある。人間、続けると少しずつではあるが確実に変えていけるものだ。