5/8『Selected Abstract Works I』をお買い上げの皆様へ

 昨日の蔵前nui.での公演でダウンロードリリースした『Selected Abstract Works I』、お買い上げありがとうございます。  ちょっとフォントの関係でわかりづらかったと思うのですが、今回のダウンロードのURLの「I」はアルファベット大文字のアイです。公演日より一週間以内にダウンロードお願いします。

 作品の詳しい内容/性質に関してはこちらの記事を御覧ください。

 昨日の売上の総額90,179円は熊本県義援金窓口に送りました。

今回でひとまずこの音源集のダウンロードリリースは一旦止めます。

ご報告でした。

(20160509)

4/26『Selected Abstract Works I』をお買い上げの皆様へ

 一昨日の4/26代官山晴れたら空に豆まいてでの公演でダウンロードリリースした『Selected Abstract Works I』、お買い上げありがとうございます。

 作品の詳しい内容/性質に関してはこちらの記事を御覧ください。

 売上は総額125,413円になりました。義援金の送り先は少し悩みましたが、今回はひとまず熊本県義援金窓口に送ることにしました。

 5/8の弾き語りでも引き続き販売する予定です。

 報告でした。

(20160428)

『流氷と工場』そして突発的リリース

 明日というか日をまたいで今日は遂に成山さんとのツーマンイベント『流氷と工場』の日です。代官山の晴れたら空に豆まいて、ありがたいことにソールドアウトしました。

 素晴らしいソロアルバムを完成させた成山さんと、これから作ろうとしている僕の二者の演奏をゆったりと聴いていただきたいと思っています。

 それから、突発的な思いつきなのですが、僕の音源をダウンロード形式でリリースします。  『Selected Abstract Works I』というこれは新作ではなく、今まで個人的に録り貯めた未発表音源で、そのなかになんとも形容しがたくも味わいのある種類のものがあり、そのなかから選りすぐった音源です。  まず強く断っておかなければならないのは、歌は一切入っておらず、曲と呼ぶことすらもはばかられるようなものがほとんどなので、普段の演奏やバンドの感じを期待すると確実に裏切られると思います。  実はこれまで発表の機会をうかがっていたのですが、ものによっては習作という気持ちで作っていたことや、作品としてあまりにフォーカスが甘い、というよりもフォーカスが「無い」ので、ずっとバソコンに眠らせてあったのですが、聴いてもらいたい気持ちはずっとあったので、ダウンロードで行くか!と思い立っての今日です。

 ◎販売方法

 ダウンロードではありますがライブ会場に限定します。ライブ会場でお買い上げ頂いた方にギガファイル便のアドレスを差し上げますので、当日を入れて7日間以内にダウンロードしていただく、という方法をとります。

 ◎価格

 価格は未設定でいきます。内容的に幾らで売ればいいか自分自身で見当がつかないというのもあります。つまり責任放棄です。10円でも1,000,000円でも構いません。

 ここでひとつ、お買い上げの際に念頭に置いておいて頂きたいことがあります。  売り上げは全額、今月14日に発生した熊本地震(九州中部地震)に義援金として寄付します。寄付先は赤十字かな〜と思っていますが、すぐに反映されないという話も聞くので支援団体に支援金の方がいいのかもとか、ちょっとまだ考え中です。

 九州はこれまでの演奏ツアーでも何度も足を運び、去年の47都道府県ツアーでも当然訪れています。こういった災害が起こる度に、これまでライブ会場に足を運んで熱心に聴き入ってくれているリスナーの皆さんの顔が浮かびます。今回ももちろんそうです。とても胸が痛みます。  僕は福岡県北九州の出身で、九州には知人友人が生活していますから、余震の状況も発生当時リアルタイムで聞いていました。なのでより身近に被害や不安が伝わってきます。何かせずにいられないのは僕だけではないと思います。

 できることは色々とあると思います。とりあえず今回は強い考えがあるわけでもなく、僕の個人的な日常の一部として、売上をそういう風に使おうと思っているだけなので、重く受け止める必要は全くありません。微力な被災地支援にもなるんだ、ラッキー!でもいいですし、義援金などどうでもいいが音源に対してのみ1億円の対価を払おう。とか、いろんな考え方ができると思います。そこはお任せします。

 ◎収録曲

1、Piano 1

ピープルのアルバム『Weather Report』のときに遊びで録音したピアノインプロヴィゼーション音源を元に、maxというソフトで組んだパッチをリアルタイムで操作しランダムにグリッチ変調を加え、同じくmaxで作ったシンセをランダムに走らせるという実験です。四谷のサウンドバレーというスタジオのヤマハのグランドピアノの音。ピアノ内部の弦や木製の部分をノックしたりもしてて、豊かな音色です。

2、20240123

正直、タイトルの数字の意味はぜんぜん思い出せません。2013年頃の作のはずです。maxのシンセと、キックのサンプリングでビートのようでビートじゃないようでビート、っていうのを作りたかったのだと思います。

3、electric_guitar

キーだけ決めてテンポも厳密に決めずにオケを即興で作っておいてその上で弾くという、曲名のとおりエレキギターソロのインスト曲です。テーマとして決めていたのは、「弾いたものが結果として旋律になるのはOK、頭で考えたり手癖で旋律を弾くのはNG」、という実際にやってみると結構難しい試みでした。ノイズが少しずつ旋律を為していく、というのをやってみたかったのです。

4、bird

スピードとフリケンシーを操作して極端なものを作れないかな、とおもって作った気がします。あまりにストイックすぎて、半ばヤケクソで鳥の鳴き声のサンプルを入れたらまあまあ面白くなりました。

5、Output 1-2

数人の人が木のブロックを叩いていて自然と生まれるようないい加減なズレを、実際の演奏じゃなくmax上でプログラミングしてできないかな、という実験をするために作った気がしますが、まあ失敗していますね。これまたmaxでリアルタイムで弾いたキーボードのピアノ音をグリッチ変調させていて、それがうまくハマっていて曲としての雰囲気は好きです。こうして振り返ってみると、max勉強の習作が多い気がします。maxというのは音と映像の自由度が高いプログラミングソフトです。

6、Spiegel Im Spiegel

これだけずば抜けて古い録音です。下手すると12~3年前かも。エストニアアルヴォ・ペルトという現代クラシック作曲家の曲をエレキギター2本でカバーしています。当時、黎明期だったドゥームにはまっていて、ドローンぽくカバーしたらかっこいいんじゃないかと閃いたのですが、事実、なかなかかっこいい。ペルトをファズで潰したエレキで、っていうコンセプトに自己陶酔しちゃっているのがグイグイ伝わってきますが、ラストのフィードバックからペダルをオフにするカチッていう音までなかなか味があって気に入っています。

7、acoustic_guitar

2014年頃の録音で、何の変哲も無い、アコースティックギターのフリーインプロヴィゼーションです。当時、楽器を演奏するっていうことは、いったい人の営みにおいてどういうことなんだろうかという根本的な疑問に向き合っていて、そんなおりにずっと好きだったデレクベイリーの評伝が日本で出版され読んで改めて感銘を受けたのを機に、彼がしているような本当に純粋な即興というものをやってみたいと思いました。自分の中での疑問への答えを行為によってなにか掴めたらな、という漠然とした思いからです。音楽も知らない、音程も知らない、奏法も知らない、というつまり、初めてギターを触る時に感じる驚きや喜びを再び引き出す、ということをやってみようと思い立ち、朝起きて、アコースティックギターのところへ行き、ただ録音ボタンを押して気持ちの純粋さが持続するまで、ただ弾き続けるというのを4日くらいやった中の一番良かったテイクです。ま、デレクベイリー、その一言に尽きます。

※形式はwavなので、全部で1Gくらいあります。

※是非欲しいけどソロのライブに来れず買えないという方は、少々お待ち下さい。いつか遠い将来ですが聴けるようにしたいとは思います。特に著作権も主張しないので、誰かにねだるというのも手段かと思います。ただ、正式音源としてのリリースではないので、そこまでして手に入れるべきものでもないのではないか、と作者としては思っております。

※ひとまず、4/26と5/8のみの発売とします。その後はまたその都度考えます。

※寄付の報告はこのタンブラーでひっそりと行います。

ポータブルオーディオプレイヤー

 少し前にかなり長い間使っていたiPod classicが壊れてから、外に出歩くときは仕方なくiphoneに音楽をぶち込んで聴いていたのだけれど、さすがにいろいろ辛くなって、聴く専用にポータブルプレイヤーを新しく購入した。中国製のFiiO X1。ちなみにiTunesが使いづらくて大嫌いなのでiPod Touchは考慮にも入らず。結論からいうと、iPhoneはやはりオーディオとしては僕にはダメだと思った。細かいボリューム設定ができなかったり、隙あらばクラウドに誘導しようとするところがまず好きではなかったけど、単純に音が偏ってる印象があった。聴いて比較すると一定量は確実に音が潰れてる気がする。  ここら辺が微妙な問題で、いい具合の潰れ方は聴感上はむしろ心地よかったりする。トラックダウンなどポストプロダクションの段階で敢えて潰したりもすることもあるくらい、それが一概に悪とも言い切れない。音質に無頓着な僕のような人にはときどきそれで音がいいと錯覚して聴こえてしまうことがあるほどである。  そうなったときの一番の犠牲は音の解像度で、ブーストされた帯域が前に押し出ることによって、奥まっている音が聞こえなくなったり、音の細かな凹凸が平坦になったりする。僕はiPhone(僕のは5s)がわざとそういうチューニングにしてあると勘ぐってもいて、ある種類のエレクトロニックミュージックなんかは気持ちいい。でも万が一、意図的だとしたら、勝手にそんなことしたらだめですよね、とも思う。  音の解像度の違いというのは絵で例えるならば、葉っぱの絵がふたつあったとして、ひとつは筆圧の強くシンプルで鮮やかな緑の葉、もうひとつは色は地味だけれど葉っぱの模様、葉脈まで書き込んである葉。どちらも葉っぱであることには変わりなく、違っていてもそれぞれの良さがあるが、後者に関してはその模様までしっかりと見えなければ良さは伝わらないわけだけれど、解像度が低いというのはつまり後者の葉っぱの模様が見えない状態をいう。  音楽の数ある魅力のなかでも上の例えでいう葉脈にあたる部分が省略されることを思うと、作り手としてはもちろんのこと、リスナーとしてもゾッとする。細部が削られて単純化していけばいくほど、多様性は削がれていき、平均化の一途をたどるはずで、そんなつまらないことはない。音楽にかぎらず、そう。

 MacBookのディスクドライブがなくなったり、iTunesiPhoneの同期設定の意地悪さだったりAppleがおこなう仕様の変化は、明文化されていないところでいろんな意図を感じて気持ち悪いなーといつも思う。やんわり従わざるを得ないスレスレのラインを狙って支配力を行使してくる感じ。まあこれは個人的にApple製品からの脱却を図れば全部解決する問題。

(20160410)

作曲家としてのジェフ・バックリー

 ジェフ・バックリーは自作曲を多くは残さなかった。レナード・コーエンの「Hallelujah」を初めとして、彼を有名にした曲の多くはカバー曲やジャズやブルーズのスタンダードである。  単純にレパートリー量が膨大であるとともに、カバーした曲は多岐にわたる。ボブ・デュラン、ニーナ・シモンレッド・ツェッペリン、、ヴァン・モリスン、レナード・コーエンベンジャミン・ブリテンの歌曲、MC5ザ・スミス、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、エディット・ピアフアレックス・チルトン(ビッグ・スター)、ジェネシス、スクリーミング・ジェイ・ホーキンス、ビリー・ホリデイ、バッド・ブレインズ。ざっと挙げただけでも、雑多というよりもむしろ音楽の歴史を網羅しようとしているかのような懐の広さを誇っている。

 90年代半ばにシンガー・ソングライター/オルタナティブミュージックのアーティストとして活動した音楽家のなかで、カバー曲をメインとして表舞台へ登場したアーティストはジェフ・バックリーくらいのものだと思う。なにしろデビュー盤として発売されたライブEP『Live At Sine-E』は4曲中2曲がカバー曲であり、没後にリリースされたEPと同じライブのほぼノーカット版2枚組のデラックス盤では21曲中16曲がカバー曲である。  ファーストアルバムである『Grace』にしても、10曲という決して多くはない収録曲のうちの3曲がカバー曲である。27歳というデビュー時の年齢を考えると、曲のストックがなくて仕方なくカバー曲をやったというのは考えにくい。旧時代のシンガー然としたオールドファッションなアートワークといい、当時のCD収録時間の平均に比べても曲が少ないところは明らかにジェフが憧れた時代のレコードへのオマージュであるだろうし、それに伴ってカバー曲の割合に関しても、自作曲がメインであることがまだ当たり前でなかった時代から次第にそうなりつつある中間あたりのバランスを狙っているように思えなくもない。

 1994年にリリースされた生前の唯一の作品『Grace』というアルバムは、端的にいってとても謎めいている。疑う余地もない名盤とされているが、何がどのようにしてこの作品を名盤たらしめているのかを言葉にするのはとても難しい。特異なヴォーカリゼーションとか、感動的な「Hallelujah」が収録されているからとか、そういった理由はどれも大きな木のひとつの枝に過ぎないことは間違いない。  初めてこのアルバムを聴いてから15年以上聴き続けているけれど、この作品の耳を離さない魅力がどのようにして成立しているのか、未だにわからないが故に、ずっと聴き続けているような感覚もある。

 例えば音像の独特さひとつとっても不思議だ。一聴するだけではオーソドックスで少し懐古的でもある何の変哲も無いロックにも聴こえるが、当時のプロダクションの主流であった重厚さは感じられず、羽根のような軽さ一歩手前の清廉さがアルバム通して貫かれている。かなり前面に配置されたドラムを初め、主役となる歌などひとつひとつの音が生々しく聴こえることもあってオーバーダビングは少なく思える。  しかし実は絶妙なミキシングによっておこった錯覚で、アレンジや音作りはかなり手が込んでいる。クアイアにストリングス、オルガンにヴィブラフォン、パーカッションにギターノイズや物音ノイズなどバンド以外のダビングものがたくさん背景に配置されてある。リバーブほかのエフェクトに関してもかなり繊細な設定が行われているように聴こえる。  オーバーダブやポストプロダクションの狙いというのはほとんどの場合は明快である。音に厚みを加えて派手にすることだったり、和声を補強するであったり、曲毎に変化をつけるだったりするが、この作品におけるオーバーダブやエフェクトは機能的というよりももっと複雑な意図が働いていることがわかる。  例えばタイトル曲の「Grace」という曲の終盤、曲が一旦の盛り上がりを迎えた後、ひとときのクールダウンを経て、再び渦巻く炎のようにグルーヴしていく場面。歌が演奏にバトンを渡すようにロングトーンになった背景にうっすらとストリングスが切り込んでくる。そのまま壮麗に大団円を迎えるかと思いきや、慎ましやかなストリングスをかき消すようなフランジャーの変調した音が、突然立ち上がってくる。フランジャーがどの音にかかっているのか僕の耳ではわからないくらいの、まさに電子的ともいえるエフェクト音が別の楽器の演奏のように周期的な変調を鳴らす中、バンド演奏はお構い無しにグルーヴを増していったあげく、ドリブルしていたボールを優雅に放り出すように曲が終わる。  オーソドックスに聴こえる音像のなかでそういった過激な仕掛けをして、しかも曲を損ねるどころか奥行きに聴かせてしまうそのアレンジを、どのように思いついたかは僕には知るよしもない。しかしこれは単なる一例でよくよく聴けば、アルバム『Grace』にはこのような野心的なアイデアが全体に通して転がっている。音楽に関してのこの冒険的な一面は一般的に言われるようなジェフ・バックリーのイメージからはごっそり抜け落ちている気がする。  そしてこのアルバムの謎というキーワードに繋げて話を戻せば、ジェフ・バックリーの自作曲というのが僕にとっては不思議でならない一番の謎だった。ここもあまり語られることが少ないところだ。

 曲を多く残さなかったからといってジェフ・バックリーが作曲に重きを置いていなかったかというと、その反対で、むしろ作曲という行為に真摯であり過ぎたゆえに量産できなかったのだろうと思う。

 彼の曲は一聴、つかみどころがない。抽象的である。わかりやすいメロディーもなければ同じ構成を繰り返したりすることもない。たとえば『Grace』からのシングル「Last Goodbye」はメロディーこそ感傷的で親しみやすいけれど、この曲の構成はA-A-B-C-D-E-Fとなっていて、一度展開したら戻ってはこない。しかし聴く分に印象として奇抜さは一切なく、一週間の月火水木金土日という並びくらい自然である。  他にもA-A-A-A-A-A-B-B-Aだったり、A-B-C-A-B-C-D-D-D-Dだったり色んな進行の曲はあるけれど、総じて全く自然で奇矯さとは無縁である。同じパートでも少しずつ違っていたりするが、それが流れをスムーズにしたりする。こういった曲の進行はいわゆる形骸化したロック・ポップスよりも、むしろ映画や小説に近いと考えると腑に落ちる。

 ジェフの作曲には大きく分けてふたつのパターンがある。  ひとつは誰かと共作するパターン。代表曲の「Mojo Pin」「Grace」はライブハウス時代に組んでいたGods&Monstersというユニットの相方のギタリストのゲイリー・ルーカスが下地を作ってそれにジェフが歌を乗せるというやり方。正式な音源は出ていないけれど「No One Must Find You Here」という超名曲もある。  ライブでの定番曲「Dream Brother」はジェフ・バックリー・バンドのリズム隊とのセッションによって作られた。  「So Real」「Vancouver」「Sky Is A Landfill」「Mood Swing Whiskey」「Demon John」は最後に加入したバンドのギタリストのマイケル・タイと共作している。このマイケル・タイとの曲は特に抽象的で進行も和声も分析するのが無意味に思えるほど収束しない、けれどもそれぞれ独自のムードを纏っているという代物で、展開も映画/小説的である。聴き飽きることがない。

 そしてもうひとつのパターンは、ジェフ単独で、それもどうやら聞くところによると詩先で作るというやり方だ。  ファンは誰でも知っていることだが、同じタイトルの同じ曲であっても、歌詞の一部、メロディー、構成、アレンジがライブの度に変わっていく。その変化は数多のブートレグyoutubeで確認することができるが、そこで変化を聴いていると実際に演奏するなかでそれぞれの要素を調整しながら、しっくりくるポイントを探ることで完成に近ずけていくという実験のように聴こえる。映画にたとえると、すでに存在する歌詞が映画の脚本で、それに合わせて俳優としてどう演技するのか、どういった編集で物語を進めるか、そこを時間をかけて丁重に探っているのがわかる。  それは時折脚本のほうに手を加えて書き換えるときもある。先ほど例に挙げた「Last Goodbye」も以前は「Unforgiven」という別の曲として演奏されていたことが知られているが、聴きくらべれば物語の落とし所が最終的に変わっていることがわかる。

 没後にリリースされた『Sketch For My Sweetheart The Drunk』という作品のディスク1は、一度は完成したものの本人はお蔵入りにしようとしていたといわれているアルバムである。ここには10曲中カバー曲は1曲しかない。ここには作品の性質上『Grace』のような手の込んだサウンドデザインはないが、前作から一歩前進して自分の作曲を確立しようと足掻くドキュメントとでもいえるような曲が収録されている。意識的に自作曲で勝負をかけようとしている意志が垣間見える。情報量は『Grace』よりも少なくシンプルで、人の体が動くようにナチュラルだが、よくよく聴けば奇妙で美しくグロテスクでユーモラスだ。  先日発売された『You and I』という未発表音源集(10曲中自作曲は2曲のみ)の中に「Dream Of You And I」という曲が収録されている。これは時期的には『Grace』の直前らしく、スケッチ段階のものである。これがこの約3年後、セカンドアルバムとして作られていた『My Sweetheart The Drunk』の非公式なデモ音源として流出したなかに「You & I(Guitar Version)」という曲として再び現れる。それは一節を除いては歌詞が大きく変わっているが、曲としての体はなしており、ムードはそのまま引き継いでいる。けれど、フックに当たる部分以外はもはや別の曲だといっても遜色ないくらいの違いだ。  それから極めつけは、前述した『Sketch For My Sweetheart The Drunk』に「You & I」として一応の完成体が収録されているが、なんとというフック以外の歌詞、メロディーは全部取り替えられているどころか、歌以外は単音のドローンになり、ノーリズムの独唱へと驚愕の変貌を遂げている。  ここまで違うと普通、曲とはなんなのか、どの要素において曲の同一性を担保するのかという問題になってくる。僕はここにジェフ・バックリーが多く曲を残さなかったことの鍵があると思っている。

 おそらく彼にとっては、曲を作るという過程そのものが重要だったのではないかと思う。そもそも音楽において、その曲がその曲として完成するということはどういうことだろうか。  球根のような言葉がひとつあったとして、その想いに音楽を乗せていく。ここからは僕の経験を踏まえた推論である。時間をかけて丁重に形作っていくその間にも、作り手は人間として変化して当初の作り始めた頃に抱いていたその曲への印象にギャップが生まれてくる。そうするとそこでも元の言葉にも辻褄をあわせる為に手を加えようとする。そうすると自分が見方を変えることによって曲が勝手に成長していくという感覚になるが、そうなると愛着が生まれて曲を半ば擬人化してしまうことがある。完成というのは人に例えると生きたまま剥製にするようなもので、ここで完成だと線をひくよりは、この先の成長をまだまだ見てみたいと思ってしまう。その段階において、ジェフは完成ということにそれほどの価値を見出せなかったのではないかと僕は思った。  中途半端に曲の育っていくのをそこで止めるのは忍びないという気持ち。ましてや完成した曲ならば自分の曲ではなくてもすでに世界には満ち足りている。そうなれば自分が浴びるように聴いてきたカバー曲のほうが、演奏という行為へと心置きなく向かえたのではないだろうか。おそらく『Grace』のリリースまではそうであったと思う。  『My Sweetheart The Drunk』ではそこから現代を生きる作家としての第一歩を踏み出した形跡が記録されている。フツフツとした怒りをダイナミックで優美に消化する「Sky Is A Landfill」、冷めたR&Bが少しずつ熱を帯びて最終的に体温に到達するグラデーションが見事な「Everybody Here Wants You」、仄暗い静謐を描く「Opened Once」、 ミステリアスで気怠い「Nightmares By The Sea」、憂鬱を振り払おうとするようにユーモラスなビートが跳ねる「Witches’ Rave 」、民族音楽を思わせるミニマルなビートにジェフの朗詠が絡む「New Year’s Prayer」、眼差しが優しいゴスベルフォーク「Morning Theft」、急き立てられるようなビートと美しいメロディーが熱を帯びていき高みに到達する「Vancouver」、前述「You & I」。  ジェフ・バックリーの曲は生きている動物のようだ。歌詞の繰り返しも極端に少なく、同じパートでも毎回フレーズやコードまで違う。少しとっつきづらいけれど、一度好きになったら他人の人生のように気になってしまう。消費できない音楽ほどやっかいで愛しいものはない。ジェフの音楽を好きな人なら誰でもそれを知っている。  ジェフが演奏するカバー曲を聴いていると、飛び回る鳥のような音楽の持つ自由さを感じて胸のすく思いがするが、彼が自作曲を演奏するときはそれとはまたちょっと違った印象を受ける。たとえば巨大に立ちはだかるものにうまく同化して自分のものにしようと格闘しているようにみえる。ピチピチと飛び跳ねる曲の若さを手懐けようとしているような。もちろんそれはどちらも素晴らしい。

(20160319)

新年のごあいさつ

 年をとるにつれて変わっていくタイプの人間と、ほとんど変わらないタイプの人間がいるとすれば、僕は確実に前者だと自覚している。確固たる自分というものがこれまでの人生であった試しがない。そういった核のようなものが欲しいかどうかというと、欲しい気もするし、実はすでにある気もする。自分が変化の最中にある時にふと自分を導く力が働くのは、時間をかけて形作られた芯が存在する証拠なのではないかと思う。けれど、基本的には坂道のボールのように、転がって溝にはまってはまた別の坂道を転がる、そういう運動で運ばれてきた人間である。

 思いもよらなかったことだが、ここのところ独りで音楽を作っていると、はるか昔の感覚が身体に蘇ってくるのを感じた。シーケンサーに向かってコツコツと何十曲と曲を作り溜めていた10代の頃から、上京する前の頃くらいまでの感覚。それ以降は眠っていたように鳴りを潜めていた欲求というか、飢えのような感覚。血が沸騰している。いい年してバカみたいなこと書いてるな、と思うが、苦しいのと同時に嬉しい。

 もしかするとこれは自分の核のようなもののひとつではないかと思う。失われたこの約10年を経てやっと戻ってきた感覚はとても懐かしい。そしてもうどこにもいかず、持ち続けるものである気がする。なんとなく。ここに来ての、いろいろ経ての取り戻した感、あ、世界ってこんな感じだったかも感がすごくある。

 5年ほど前に、僕にとっての音楽は随分と意味を変えた。それまでの僕には音楽というのは言ってみれば宗教のようだった。それも原理主義的な危険なやつだ。大げさでもなんでもなく、24時間を音楽のために生きていたし、音楽があれば他のことはどうでもいいという気持ちで生きていた。音楽なしでは生きていけないという依存状態にあったと思う。日常生活も音楽以外には興味がなく、音楽が介在していない人間関係も一切なかった。

 ところがあるときにふと顔を上げると、自分の思っていた音楽というのは音楽ではなかった。音楽はたしかに存在したが、音楽のなかにはなかった。そこらじゅうに溢れていて、僕があえて音楽をつくる必要がないくらいに満ち足りていた。道端の花のなかに、ブロッコリーを茹でる鍋のなかに音楽はあった。

 僕におこった変化にともなって、それ以前に作った歌というのは、正直に言うと今の自分に共感できるものはもはや少ない。未熟である恥ずかしさなんかよりも、そもそもが考え方が違う人間の歌である。よってあまり歌いたくないときもあった。けれど昨日バンドで古い曲を歌っていて、不思議と心地良くて、そのときに、「ああ、もうこれは自分の歌ではないんだ」と決定的に思った。無意識に俳優として僕はこの歌を歌っているんだと気付いた。その歌を作った人のことを、この世で一番理解している人が自分であるから、歌うのに僕以上にうってつけの人はいないはずである。今の自分のことは理解できなくても、過去の自分のことは理解できる。ライブで昔の曲と、ここ数年の曲とで僕はふたとおりの歌を歌い分けている感覚はたしかにあったのは、そういうことだろう。それは表面上には気づかないはずだ。

 音楽と自分の関係性を、これから僕はすべて自分で決める。このあたりまえのことをやっとはじめる時期が来た。  音楽に語らせたいことが、今の自分にはたくさんある。最近僕が沸騰している理由はたぶんそれだ。とても小さな声で、とても抽象的で、とても平坦で、そんな慎ましいものであるといい。と同時に猛毒になればいい。一生かけてやることに決めた。時間はたくさんある。

 音楽は僕に並走するだろう。なかなか並んで走るのは難しいけれど、どちらかというと音楽が少し後ろを走っているのが今の自分には望ましい。まず生活( つ ま り 音 楽 そ の も の )を最高に楽しみたい。

 なんとなく抱負っぽくなってきたので、これをもって遅すぎる新年のご挨拶とかえさせて頂きます。

 バンドのライブDVD『Cut Four』が発売された。

 47都道府県ツアーのファイナル公演、新木場スタジオコーストでの演奏をノーカットで収録している。  じつは現在店頭で買えるライブDVDでは唯一。『Cut Four』はこれまでの映像になった演奏の中でいちばん胸をはれるものになった。ツアーの集大成というよりは、会場が広いだけで、ただの48本目という感じ。こういう演奏をいつもやっていますという感じ。僕に関してはミスもガンガン入っている(一箇所だけ直したのは秘密)。

 そしてピープルはテーマを設けた4ヶ月連続のマンスリーワンマンが渋谷クワトロで始まる。これまでのお腹いっぱい食わせるおばちゃん食堂タイプのワンマンではなく、個人経営レストラン的なライブになるといいな、何て思っています。僕が監修する5月公演はまあまあドープになる予定なので気安く来るんじゃねえ。つまり来てね☆

年末/クイズ/いか大根/2015/欺瞞/未来は明るい

 12月は僕にとって鬼門とでもいうべき季節だ。その理由を言葉にするのは難しい。故郷にいた頃に感じていたぼんやりした不安や焦りとか、居場所のなさとか、もっと深いところにある謎めいた疼きとか、そういったものが匂いの記憶のように、実感としてまとまって12月にカムバックしてくる感覚になる。単純に気候の変化で精神的に弱ってしまうだけかもしれない。  どうやらそういう人は僕だけではないような気がする。そういう同じような友人を知っているし、街の雰囲気もどことなくおかしくなる。  年齢を重ねることのよいところであろう、そうなることをまえもって覚悟するようになってからは、軽度の落ち込みで済むくらいには12月を手なずけている。下手するとちょっとした混乱くらいなら楽しめる。さらにいうとそういった混乱を解析していく作業は、音楽を作る作業と重なるところは間違いなくある。つまり、たいしたことではない。

 身のまわりでおこることには、公的/私的であれ、大規模/小規模に関わらず、とことん悩まされる。すべてがその正体の全貌をみせぬまま、密接につながっている。超難解なクイズのようである。  それを解こうと足掻き続けることは、おそらく死ぬまで続くのだろう。そう考えると、ここら辺で肩の力を抜くことを覚えないとまずいくらいに、人生は長期戦になるであろうということがここ数年でわかった。思考や感受に引退はないのだ。自分がそう望むかぎり。

 先日、初めてイカを調理した。イカの胴体に指を入れて連結部位を外し、足をつかんで内臓ごとひっぱり出す。テレビの料理番組で観ているとプロの手さばきもあってか簡単そうに見えてたかをくくっていたが、実際に生のイカを目の前にすると、それがつい数日前まで生きて海を泳いでいたことをおもわずにはいられなかった。イカの目は黒々と輝いている。内臓を抜き取り、胴体のなかに残った内臓をかき出し、軟骨を引っぺがす。放射状にのびる足の中心からくちばしを取り除く。  軟骨をはがすのに苦労しながら、ふと手が止まった。なんだかこれは凄いことだ。じわりと妙な気持ちが湧き上がってきた。こうして丁重に時間をかけて命をばらして、食べる準備をすることを人類はずっとやってきた。その果てしない時間の奥行きが一瞬あたまをよぎった。  イカの黒い眼差しがこちらを見ている。その目はなにも語ってはおらず、だからこそ僕はいま死を扱っているのだということを意識せずにいられなかった。そうすると、この瞬間に僕が課せられている役割はこの美しいイカの身体を、美味しい料理に昇華させること以外にないと感じた。  それは『食』ということの当たり前すぎるがゆえに気づかなかった根本的な凄まじさである。人間の業のひとつでもある。その行為はいろんな言い方ができると思う。文化論/宗教論/芸術論として。が、なによりそれが日常的に行われることが驚異的であり、僕は生活というものそれ自体が歴史や世界と大きくひとつ繋がった美しい行為に感じられて、とても豊かな気持ちになった。おおげさでなく、今更そう思った。  ワタを味付けにつかったいか大根、非常に美味しかった。

 それにしても、今年は素晴らしい一年になった。47都道府県ツアーをして、『Calm Society』『Talky Organs』という連作を製作、発表した。  この2作はとても鮮やかであると同時に、真価を発揮するまでに時間を要するはずだ。音楽と料理にはふたつの相違点があって、ひとつは音楽はなくても生命を維持できること、ふたつめは音楽は腐敗しないことである。それどころか時間を置くことによって別の旨みを発揮することすらある(そう考えるとワインは音楽に似ている)。この連作はそういった音楽特有の要素を十二分に含ませようと腐心した。「今」という時間だけを凝縮して詰め込んだから、後年どんな遠近感でみてもぼやけないでくっきりと見えるといいなと、そういう強い期待もこもっている。けれどもそれは時間を経てみないとなんとも言えない。

 目に見えないことを大きく見せたり、もしくは存在するものをないようにあつかったりということを人は平気でする。ほとんどの場合、それは無意識だろう。もしくははじめは仕組んだことでも、他人が信じてしまうことによって自分自身までもがそう信じきってしまう場合も少なくない。  それは、欺瞞・虚偽であるということに自分自身で気づかねばならない。しかし、自らの虚偽を摘発するほど困難な事が他にあるだろうか?自己認識を揺るがすリスクをはらむそれは、ほとんどの人とっては不可能であるかもしれない。  だから、自分自身が正義であると嘯く相手には気をつけねばならない。その人物は自らの誤りを疑える度量はない。  ぼくは世界情勢からそれを知った。歴史上、国家間の対立/宗教観の対立は正義VS正義の図式であることがまあまあ気を重くさせる。

 しかし。僕たちが望むかぎり、未来は明るい。