【Q&A:回答その5】

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 質問の募集は終了しました。ありがとうございました。

 少しずつお返事していきたいと思います。

 

波多野さんこんにちは。今日もTabuⅼaRasaを聴いています。これまでの作品より更に波多野さんの個人的な立ち位置を表明したようにきこえるこのアルバムに強く支えられています。何より波多野さんをこれまで支え続けてきたであろう音楽へのリスペクトや歓びのようなものに満ちていて何回聴いてもスキップしたくなる、というかしています。長くなりました。質問です。波多野さんにとって繰り返し読むに値する強度のある「書物」は何ですか?波多野さんの読書遍歴とても興味あります。いつになるのかわかりませんが必ずまたライブでPeopleの皆さんとお会いしたいです。トムくんもどうぞ健やかに。  

(ホーさん)

 

 ありがとうございます。スキップしたくなるというのは最高ですね。僕は好きな音楽を聴くとどんな曲調であれ、踊ってしまうタイプの人間です。いずれにせよ、じっとしていられなくなりますよね。

 本に関する質問は結構ありました。僕にとって繰り返し読むに値する強度のある書物を教えて欲しいという質問にお答えします。僕は同じ本を何度も読むのがとても好きで、まだ読めていない本が傍らに積んであっても、構わず以前読んだ本を読み直すほうを選びます。

 年末年始に20年くらいぶりにドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読み直しましたが、当然ながらやはり印象が全然違いました。こちらの読み手としての解像度が変わってきていることもあると思いますし、現代感覚と照らし合わせるとその相違点に多くの発見があり、改めて痺れました。どの登場人物も魅力的で、それぞれすこしずつ違った欠落にシンパシーを抱かずにいられませんでした。ときおり作者が登場人物に語らせる尊厳や信仰に関する問いかけは現代においても、むしろ現代にこそ強く響き、まさに普遍的な強度を誇っている小説だと思います。

 10代で読んだときはアリョーシャが好きだったのですが、今回、彼の振る舞いにはなんだかイライラしてしまいました(笑)。
 ここ10年くらいで何度か読み直したのは小説だと、トマス・ピンチョン「V.」、リチャード・パワーズ「われらが歌うとき」、ヘッセ「荒野のおおかみ」、他にもありますが、そのあたりでしょうか。

 「われらが歌うとき」はおすすめです。珍しい出自の音楽一家の一代記で、20世紀のアメリカの空気と具体的なクラシックの固有名詞が混ざり合って、ハマる人はハマるとおもいます。

 あまり文字を読むのが速い方ではないので、正直たくさんは読んでないのですが、ここ5年くらいで単純にぶっとばされたのはイーユン・リー「さすらうものたち」、上田岳弘「キュー」ですね。

 小説以外では大野一雄の「稽古の言葉」はよく手にとって開いたページを眺めています。舞踏家の研究生に語りかける言葉がランダムに載っている本です。身体において比喩と現実の境目があいまいになる、そんな状態の発話がなにげなく記録されていて、何度読んでも驚嘆します。稀有な本です。

 土井善晴「おいしいもののまわり」、あとは興味ある分野の本はつまみ食いでよみます。

 あとムックの「Jazz The New Chapter 6」は騙されたと思って読んでみて欲しいです。一見、表面的にはジャズの最新の断面を切り取ってリアルタイムを追っているように見えて、実はそこに生じる不可解さをきっかけとして歴史への深度をぐいぐい上げていくという、たとえるなら枝葉を伸ばすよりもむしろ地中に根を広げていくほうにフォーカスされたような、そんな変な本です。

 

波多野さんはじめまして。最近好みがラーメンからうどんへと移行しつつあり、日々うどんへの興味が尽きない状態です。以前『音楽と人』のコラムで樋口さんをお連れしていたうどん屋さんもシステムが斬新でびっくりしつつも(自分で茹でるだなんて・・・そんなお店あるんですね・・・)とても美味しそうでした。他にも好きなお店ありましたら教えていただきたいです。あと香川に移住してからのうどん食べる頻度や移住してから身についたうどん食べる際のこだわりなんかも一緒に教えていただけると嬉しいです。

(tabun game overさん)

 

波多野さんは数年前に四国へ移住されたとのことですが、東京での暮らしから離れて良かったな、と感じることはありますか? 私はいつか都会の喧騒から離れたいなと思いつつも、東京の利便性や、海外アーティストのライブが首都圏ばかりで開催されること、何より友人たちと離れることに強い抵抗感があります…

(べーあんさん)

 

 うどん関係、四国、香川への移住に関する質問もかなり多かったです。まとめてお答えさせていただけたらと思います。

 とはいっても、僕もまだ香川に引っ越してきてやっと4年目に突入したばかりで、ましてやうどんの奥深い世界を目の前に、わかったような顔ができるような段階にあろうはずもありません。あくまで初心者であり、ありきたりなことしか言えませんが、実際に住んでみてわかったことは、香川のうどんというのは食べ物の域を越えてもはや文化なのだということです。つまり、名物ではなく、生活の一部なのです。

 僕は福岡出身ですが、辛子明太子は名物です。とんこつラーメンは名物です。しかし毎日食べるわけではなく、生活の一部ではありえません。ところが、僕の観測した限りでは、香川ではうどんを毎日食べる人は確実にいる。裏をかえせば毎日食べることができるということがおそろしいところです。

 ご存知のとおり、うどんは出汁と小麦粉というミニマルな素材と、それぞれの構成要素の配分のみで質が決まります。それゆえに、違いがそう簡単には記号化できないところが特徴だと思います。例えばラーメンは店によって材料が違うわけです。特製のスープからチャーシュー、メンマ、なんでもいいですが、単純化すれば材料という記号によって味に違いが出てくるわけです。ところがかけうどんは出汁と小麦粉のみ。記号への分解ができない。それでは、どこで味に違いが出るのか。

 それはずばり粉をあつかう職人さんの腕です。そこでほとんどの違いが出るといっても過言ではないように思います。ふたたびラーメンを引き合いに、ざっくりと音楽に例えるならば、曲で勝負するのがラーメン、演奏で勝負するのがうどん、そう言い換えることができるかもしれません。曲はどうしても流行り廃りに影響されます。しかし、演奏技術というのは基本的には廃れない。文化にまで昇華された理由はいろいろあるはずですが、うどんそのものが内包するそのような性質もひとつの理由であったのではないかと僕は推測しています。

 個人的にこの文化の奥行きを感じることのひとつに、「あきらかに老舗だが、そんなにおいしくない」うどん屋もあるという事実です。不味いとかではなく、あくまで「そんなにおいしくない」という絶妙なラインの店が、なぜだか僕は好きです。先日も導かれるように無骨で風情のあるとある店に行ってきましたが、「うん、これこれ。美味しすぎないこの感じ」と満足して店を出ました。

 その折のことですが、いざ食べようとした時に店番のおばあさまが「生姜いる?」というので、ぜひお願いしたところ、つい数秒前に金銭授受をしたそのままの手で生姜をすりおろし始めるという衛生的にも時勢的にも(3月上旬)お?!どうだ?!というスリリングな光景が目の前で繰り広げられたことも、なんとなく書き添えておきます。

 

 香川に引っ越して、東京での暮らしとを相対的に考えることはなくなりました。ふとしたときに違いを意識することはもちろんありますが、そこにはどちらが良くてどちらが悪いということは実はないんですよね。

 たとえばべーあんさんもおっしゃるように利便性ということでいえば、東京が良いに決まっています。自然環境ですら、ある意味では東京の方がアクセスしやすいかもしれません。一方で、生活においてそれほど利便性に重きをおいていない僕のようなひとからすると、ただ違うというだけで、それ以上のことではないこともまた事実です。

 これはおそらく、僕がより住みよい場所をもとめて移動したということよりも、自分が次第に変わった結果としてそれまでいる場所から移動したということなのだと思います。ちょっと伝わりにくいかもしれませんが、場所そのものの特性にいうよりは、僕自身の変化が根拠であるというか・・・。僕は東京という街には思い入れもあり、今でも純粋にとても好きな場所ですが、引っ越す直前に「住み終えた」という前向きでも後ろ向きでもない、ただ平坦な感覚がありました。むしろ、喧騒が嫌だな、満員電車サイアクだな、と思うようになったのは引っ越した後です(笑)。そういう意味でいえば、べーあんさんの文面をみる限り、まだ東京は住み終えてないかもしれませんね。あくまで個人的感覚として受ける印象なので、真に受けないでほしいのですが(笑)。

 僕が幸運だったのは、香川で出会った人々を、僕がとても好きになったことです。マイペースで芯が強く、雑音に惑わされずに考える、他人に優しい人が多いとおもいます。僕もそれに甘えることなく頑張ろうとフラットに思えます。すごく素敵な街です。

 

 

波多野さん、こんばんは。 いつもピープルの音楽に救われている一人です。 質問、と言うより相談なのですが、わたしは周囲に対してとても過敏で、些細なことで傷付いたり、被害妄想をしたりなど、ストレスを抱えやすいです。現在は通信制の高校に通っているのですが、長く不登校が続いていたので、生活習慣が乱れています。 双極性障害、という診断も出されました。 色々な工夫を凝らしたり、考え方を見直したりして、今は自分にできることをやろう!と思えているのですが、たまに、というかしょっちゅう、心がポキッと折れてしまいます。 波多野さんはこれまでの人生で、どうしようもなく心が傷ついてしまったとき、どのように乗り切ってきましたか。また、現在進行形で悩んでいる人間を目の前にしたとき、どのような言葉を掛けますか? これからも応援しています。

(みかんさん)

 

 現在進行形で悩んでいる人を目の前にしてどのような言葉をかけるか、ということですが、僕はおそらく人が想像しているよりもかなり薄情なので、基本的に言葉はかけません。ほんとうに悩んでいる人の前で言葉が効力を発揮することって、ほとんどないというのが僕の考えです。人が救われることがあったとき、そのきっかけは外部のものであっても、そのきっかけを選びとったのはいつでも他でもない本人の隠れた力だと思っているからです。

 ただ、長く続いた不登校で生活習慣が乱れており、通信制の高校に通い、些細なことで傷つき、被害妄想を逞しくしたあげく心が折れる、というのはまさに僕の10代のころの写し身のようです。僕はそういう人でした。双極性障害のことも、とても辛いことをそれなりに知っているつもりです。

 なので、現在の僕から、10代の頃の自分に向けてという設定であれば、みかんさんに少しだけアドバイスのようなことを言えるかもしれません。いいですか?いきます。

 まず、君の感性は間違ってはいません。そのアンテナの感度、すごくいい感じです。同時に、その素敵なアンテナが焼けつかぬように、なんにせよフルパワーで感じることは控えてください。それから、すぐに物事を好転させようと頑張らないで下さい。がんばらないときにかぎって、なぜか勝手に物事が好転することがあるからです。

 言うは易しで、それらが難しいということもよくわかっています。なにより、今言ったことは観念的でぼんやりしすぎています。それを可能にするためにまずは具体的なことから始めましょう。試してほしいことがあります。

 規則正しい生活を送ってみてください。

 規則正しい生活とは、自律神経が整っている生活です。自律神経とは、交感神経と副交感神経のバランスが取れている状態です。朝おきて夜寝る生活です。

 夜眠れないときは、交感神経が働きすぎているので副交感神経を優位にするする必要があります。そのためには、起きている昼間の時間にエネルギーを燃焼させて、ほどよく肉体的に疲労し、リラックスする必要があります。

 エネルギーを燃焼させるためには深い呼吸と食事、必要最低限の筋肉が必要です。深呼吸と、筋トレ+ストレッチのセットを日課にしてください。

 以上、ざっくり説明しましたが、改めて本などで勉強してみてください。

 具体的でしょ?これはこれで、ひとつの循環を作るのは大変で、実際に規則正しい生活が習慣になるまでには、1年はかかると思います。僕の場合は3年かかりました(笑)。

 試す価値はあると思います。保証します。がんばってくださいね。

【Q&A:回答その4】

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質問の募集は今日の深夜24時までとなります。以下の要領でお願いいたします。

hatanohirofumi.hatenablog.com

今日もおもむろにお返事していきます。

こんばんは。 私はPeopleをデビュー当時から愛聴しているしがない公務員(出会った当時は自惚れた大学生でした)です。誠に勝手ながら結婚式でも「笛吹き男」を馴れ初めムービーのBGMに使わせていただ(ry 今世間を騒がせている新型コロナウイルスーー私はある県の保健所で働いて、日々その対応に追われる日々を過ごしています。私は保健師のような専門職ではなく、昨年度たまたま異動してきた事務職員ですが、このような状況に見舞われ、日増しに増える感染者と相談電話の件数、加熱する報道で、本日目の前のかわいらしい新規採用職員を目の前に、つい「あ゛ーー」と叫んでしまいました。。。そうかと思うとクレームの電話で、「保健所はポンコツ」と5回くらい言われて、もう忙しすぎて何も感じずただただ虚しくなってしまいました。 いわゆるPCR検査の検体が出ると、それを取りに行ったり、検査機関に運んだりするわけですが、なるたけ公共交通機関の利用を避けようと、雨の日も風の日も自転車でずぶ濡れになって運ぶこともあります。そんなとき私は大学の時に読んだ志賀直哉のある小説を思い出し(タイトルはど忘れしました)、春雨の中ずぶ濡れになると、「自然」を感じ、「自然」と一体になる感じーーを気持ちよく感じることがあります。と同時にこれが「公」の仕事なんだなぁと自惚れたりしています。 深夜にこのQA募集を見て、波多野さんに何を伝えてたいのかもわからず文字を打っていますが、その、なんだろう、コロナの件ではご迷惑おかけしています。私も東京公演のチケットを今でも手元に置いて、今か今か待ち受けています。Peopleの演奏今すごく聴きたいです。 昨今の状況では公演時期の選定も悩ましいことかと思いますが、私も都合をつけて必ず聴きに行きたいと思っていますので、どうかよろしくお願いいたします。 明日は金曜日、でも電話多いんだろうなぁ、ということでこんな私に一言でも声をかけていただけるとうれしく思います。乱文ですみません。

(LindaKさん)

 

 保健所の事務職員さんということで、降って湧いたこの状況に大変な思いをされているようですね。雨でずぶ濡れになりながら検体を検査機関に自転車で運ぶLindaKさんには感謝の念に堪えません。

 クレームの電話対応もお疲れさまです。文句の矛先を間違えてしまう人というのは必ず一定数存在しますよね。非常時の手近なサンドバッグ探しでそれ以上のものではないので、自動音声だとおもって聞き流すのが良いと思います。あまりストレスをためないよう、ときどきは叫んだりしながら、無理せずできる範囲でがんばってください。

  以前イギリスに滞在したとき、あちらの人がちょっとやそっとでは傘をささないのが驚きでした。天気が変わりやすく、通り雨も多いので、ちょっとぬれるくらいの雨だったら、傘を持ち歩いたりいちいち差したり閉じたりするよりはマシという考えなのかなと思います。たまになら雨に打たれるのもそれほど悪い気分ではないかもしれません。

 

 

質問失礼いたします。ピープルのライブは年々進化を遂げていますが、『Cut Five』以降DVD等の映像作品のリリースは長らく途絶えています。個人的には最近のピープルはライブの映像作品化を敢えてしていないようにも感じられるのですがその実、いかがでしょうか。

(ペルトさん)

 

 おっしゃるとおり、ピープルの演奏も映像作品として観ることのできる演奏からいまでは次第に変化してきており、僕としてもそれが記録として残らないのは勿体ないと思っています。

 そもそもオーバーダビングしてある作品とライブとを比べたとき、僕の演奏にかぎっていってもほとんど違いますし、ピープルはその日限りのアレンジやセットリストというのが非常に多いです。にも関わらず、活動を記録に残すというのが僕らは本当に下手なバンドで(笑)、その日の演奏のことに手一杯で、先のことまで頭がまわっていないというのが実情なのです。個人的にも2017年のリキッドルームでの『激歪』や2018年の『Weather Report』のライブver.などは、終演後になって録っておけばよかったと後悔するもあとの祭り、という有り様です。

 また僕は自分の歌唱や演奏の粗さがどうしても気になってしまうタイプで、繰り返し聴くことに耐えうる演奏になっているかという自問自答が、演奏を記録として残すことをなんとなく遠ざけている側面もある気がします。

 リスナーとしての僕自身はライブ盤がとても好きというジレンマもあり、同じ曲であっても原曲とアレンジが違ったり、コンディションで演奏が違ったりすることを魅力だと思っているので、そうなるとピープルこそライブ盤にもってこいのバンドでは?という結論がどうしても導かれてしまうことは確かです。

 いずれはしっかりと音源なり映像なり、形として残していけたらと頭の片隅にはありますので、どうか気長にお待ちいただければと思います。

 

リチャード・ドーキンス著の利己的遺伝子論にもあるように、我々はただの遺伝子を運ぶ入れ物でしかないと考えております。 そして、中途半端に理性と文明を持ってしまったせいで、生物本来の営みから逸脱した「不自然」な状態にあるのではないかと。 その上で、我々が必死に生きる意味はあるのでしょうか? 面倒臭い質問ですみません。

 (aconitum07354さん)

 

初めまして。 トムくん、ふかふかでかわいいですね。 最近の曲の中で私は「動物になりたい」がとても好きです。 波多野さんの思う「動物」と「人間」の大きな違いは何でしょうか? 歌詞にある「言葉」を持っていることを含め、 何か違いを感じているところはありますか?

うちにはモモンガが7匹います。 呼んだら出てくる子、野性味あふれる子、怖がりの子、いろいろと個性があるように思います。 また、おそらく生や食や生殖に関わる情報交換に限られるのでしょうが、結構鳴きます。 人間の使う言葉や文字とは違って、「建前」や「行間」のない言語なんだろうと感じています。 余計な疑念やら後悔やら受動喫煙のように望まないのに入ってくる情報に惑わされず、 遺伝子の声(私には聞こえません)に従って生きるために生き、何も残さずに死ぬことを羨ましく思います。 同時に人間になり過ぎた私にはできない生き方であることも思い知る、そんなモモンガとの生活を送っています。  

(善きモモ飼いの教会さん)

 

 人間とチンパンジーのDNA配列の差は、馬とシマウマのそれよりも全然近いという話を聞いたことがあります。ちょっと表現として正しいかどうか自信がないですが、遺伝子のなかで言葉に関係する領域は大きくないということですよね。

 善きモモ飼いの教会さんが遺伝子の声、と表現されていますが、動物をみていると、人間には言葉と引き換えに失った領域というのがあるような気がします。うちのうさぎのトムは肉を焼く音がすると、なぜか怯えてケージへと逃げ帰ります。魚群が申し合わせた訳でもないのに一斉に向きを変えたり、勘のいい犬がとんでもなく長い距離を経て飼い主の元へ帰ってきたりと、人間にからすると不思議なことが多々あります。また、蟻や蜂などをみると、それなりに高度な社会を形成するのにも、言葉が必要不可欠ではないことがわかります。

 言葉の力、といいますが、言葉そのものにはどうも信用できないところがあります。発信者/受信者に関わらず、人によって定義も違えば、そもそも時々の己の都合によって定義そのものを変えるのが人間です。厳密さもまちまちで、便利で速いけれど最も大事なときにこそ役に立たないのが言葉だと、僕は思います。

 そういった意味で、僕も善きモモさんと同じく動物が羨ましくなることはあります。彼らは彼らで生きるか死ぬかのハードボイルドな世界に生きていることも承知ですが、シンプルで切実で、いいですよね。いつでも考えるまえに身体が動く彼らはとても美しく見えます。

 さてaconitum07354さんのおっしゃることですが、理屈としてはなんとなくわかる気もします。僕は10代の頃、飼い犬を撫でながら「人間を含むすべての動物は自己増殖をくりかえす精密機械に過ぎない」と嘯き、真理を喝破したような気になっていた時期がありました。おそらく自意識が暴走して変な感じになっていたんだとおもいますが、言っていることはそれほど大きく的は外していない気もします。aconitum07354さんの書かれているドーキンスさんの利己的遺伝子論は知りませんでしたが、ただの遺伝子を運ぶ容れ物、といわれると、そうかもしれない、と思います。

 同時に、それはaconitum07354さんの文面から伝わってくるほどには悲観的なことでもないような気がします。動物の一生が遺伝子を運ぶにすぎないにしても、我々人間は言葉やその他の記号が織りなす複雑さを用いて、その過程をいかようにもデザインできます。自分が自分である、という遊びができるのもまた人間です。もてる選択肢のなかでどう生きるか、その遊びには必死で取り組む価値もあるといえるのではないかと思います。

 そもそも、食卓に出てきたピーマンの肉詰めにケチャップをかけて、「色が鮮やかでいい」とか言い出す変な生き物なんですよね、我々は。

【Q&A:回答その3】

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気の向いたものからお返事書いております。ご質問は以下の要領でお願いいたします。

hatanohirofumi.hatenablog.com

それでは回答その3です。

 

おはようございます。質問失礼いたします。 波多野さんは、自分が好きなアーティストや音楽から無意識のうちに影響を受けていて「ああ、自分は〇〇に影響を受けていたんだな」とそこで初めて気付くというようなことはあるのでしょうか?

(無地さん)

 

 とてもあると思います。どんなにオリジナルなものを目指してはいても、好きで聴いていたものからの影響から逃れるというのはどうしても難しいのではないかと思います。特に10代から20代の初め頃に傾倒していた音楽は血肉化しているといっても過言ではありません。僕がある意味ラッキーだったのは、Sonic YouthJeff Buckleyなど、そもそも意識的に真似るのが難しい人たちの音楽を聴いてきたことです。そのおかげで著しく誰かに似てるといわれることはなくやってきました。

 ただものすごく困るのが、もっと具体的なところで、過去にある曲を聴いたことを忘れていて、それを自分が作ったと思い込んでいるケースがごく稀にあることです。あるとき、Policeのアルバムを聴いていて、ピープルのある曲に酷似したリフが聴こえてきたときには頭を抱えました。僕がそのアルバムを聴くのは、どうかんがえても初めてではなかったからです(笑)。真似したわけではないので厳密にいえば違うのですが、印象がほとんど同じで、自分では即座にわかりました。それ以来、ひらめきのように曲が降りてくるときは、まず初めにそれを疑います。同時にそれに気づけるかどうかは運のようなものでもあるので、ある意味では開き直ってもいます。

 同じような理由で、近いシーンの人の音楽はあえて意識的に聴かないこともあります。無意識であれ似てしまうとシーンが均一化してしまい、俯瞰で見渡したときに誰も得をしないからです。

 

ウイルスの影響でライブやイベントが中止になり、ピープルも含め音楽業界全体で損失が免れない状況になってきているかと存じます。 ニュースなどで倒産してしまった会社や飲食店なども出てきている現状を知ると、ミュージシャンは大丈夫なのだろうか?と僭越ながら心配に思うことがあります。 SNSを見ていると私だけではなくファンの間でも心配の声が上がっており、グッズを購入したりサブスクで曲を聴くなど微力でも何か力になりたいと動く方を見かけます。 お聞きしたいのは、実際のところ今回の騒動でミュージシャン自身や周囲のスタッフさんが生活できないほどの致命的なダメージは受けていないかということです。 また、我々ファンができることやファンに望むことがあれば教えてほしいです。 不躾な質問失礼いたしました。

(さちさん)

 

 大変な世の中になってきました。今回のことで職を失うひとも多いでしょうし、景気そのものが落ち込むことによって、いま不利益を被っている業種以外の分野でも影響が出てくると思います。この先も急激に良い方向に向かうということは考えづらいと思います。まわりの音楽関係者やミュージシャンと話すかぎり、いくら危機的とはいえ、やはりそれぞれに考え方も違い、状況や立場も違うので、こればかりは僕が代表して何かをいうことは当然ながらできません。

 僕の個人的な一音楽家としての考えなので、一般的な考えではないという前提でお話しすると、まずはそうした心配をおかけしてしまって申し訳ないというのがひとつ。そして力になりたいという気持ちを素直にありがたく思います。本来ならばこうした状況でミュージシャンこそが音楽を通じてリスナーに元気を与えるべき(もちろん内的な複雑な過程を経て)だと思っています。

 他方で、そうした危機に生活者として声を上げなければならないというのもまた事実です。もちろん日本政府へ向けてですね。そこに関しては業界の隔たりなく、なおさら個々が主体としてどう考えるかという局面だと思います。

 ただ、リスナーに望むことということになると、やはり別の話になってくる気がします。僕はあくまで個人的にですが、生活者である部分と、音楽家である部分を、音楽家自身が同一化して打ち出し、なにかの根拠として用いることは、そもそも論理的に無理があると思っています。演奏をして音楽を聴いてもらう、作品を聴いてもらうということへの対価以外はリスナーに求めることはない、という職業としての建前を崩すことになってしまうからです。僕にとってはその理屈を通せなくなることの方が、先々作品を作っていくにあたって枷となると考えています。あくまで「建前」という言葉を使うのは、グッズのような音楽以外の部分ではすでに事実上サポートを受けているからです。

 ちょっと説明がまどろっこしくなってしまいましたが、僕個人としては、「非常時だから」という理由でリスナーにこれまで以上の負担を強いるわけにはいかないとというのが結論です。生活者という点では同じである以上、あくまで対等であろうと努めたい。

 ですので、たとえば「断念した公演の払い戻しをしないことでサポートになる」という筋の通らない話などにはどうか乗らないでいただけると嬉しいです。

 また単純な結論となりますが、ライブ公演が難しい現状、これまでにリリースしてきたPeople In The Boxの作品がこの時代にどう聴こえるか、これまでと違ってどう聴こえるかを楽しんで頂ければ、それに勝るよろこびはありません。
 そして再び公演ができる世界になった暁には、各地でお会いしましょう。

 さちさんと同じく「サポートするにはどうすれば?」というご質問は、他にもいくつも頂きました。心からありがたく思います。

 

 

波多野さんはじめまして。 僕は高校生なのですが、いずれは音楽(バンド)で生計を立てることを目指しています。 参考にお伺いしたいのですが、波多野さんはどのぐらいの時期にバイトも辞めて音楽一筋、という感じになられたのでしょうか。またバンドマンの給料事情もざっくり教えて頂きたいです。 下品な質問で申し訳ありません。

(いけりん。さん)

 

 いけりん。さんは高校生とのことですが、2倍の長さの人生を生きてきた僕からはっきりと言えることは、こんなご時世に音楽、しかもバンドで生計を立てようと思うべきではありません。

 人というのは自分で思っている以上に客観的になれない生き物です。僕はバンド活動を始めた当初、自分の作る曲はキャッチーだからすぐにバカ売れするだろう、なりたくもないのに金持ちになってしまうだろうと考えていました。結果はご覧の通りです。

 質問に「バンドマンの給料事情」という言葉がありますが、それは「昼の夜空の星の輝き」くらいの語義矛盾です。バンドマンには給料はないと考えるのが一般的に自然です。本当です。

 音楽は職業ではなく生き方です。その上で、儲かる人は儲かります。儲からない人は儲かりません。なんであれ、がんばってください。応援しています。

【Q&A:回答その2】

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ほんとうにちょうどいい感じでご質問頂いております。
ご質問は以下の要領でよろしくお願いいたします。

hatanohirofumi.hatenablog.com

今日も少しずつお返事していきたいと思います。

 

これまで訪れた街のなかで、一番思い出に残っている街と、その理由はなんですか? (以下、雑記です) まだ穏やかだった2月にニューヨークに行きました。エンパイア・ステートビルの屋上から街を眺めた時に、People In The Boxの曲が自然と思いだされ、これまでぼんやり追っていた歌詞の意味が、点と点が繋がるように、直観的に理解できた気持ちになりました。 資本主義、グローバリズム、物質主義、個人主義(その集合体の社会)、のようなものの極致が、この街並みに詰まっていると感じたためでした。 「塔」だけでなく、特にAve Materia以降の曲のいくつかが、この景色(あるいはそれが象徴するもの)を歌っていると感じました。波多野さんと同じ景色を見られたかのではないかと、勝手に嬉しくなりました。 Peopleの曲からはいつも、物語を持つ街並みを連想します。波多野さんのお気に入りの街を知り、その街の要素が、どの曲のどんなところに潜んでいるだろう、とわくわく想像してみたいです。 この騒ぎが収まる頃、それぞれの街が持っていたイメージは変わっていると思うのです。それをしかと受け止めつつも、「いままで」の文脈で旅行ができたら、嬉しいです。

(MEさん)

 

 まさにPeople In The Boxの「塔」という曲は副題からも察せられるとおり、エンパイアステートの屋上からの景色が起点となって歌詞をつくっています。2012年の正月にニューヨークに行ったのですが、そのときに屋上からみた景色は今でも目に焼きついています。ここまで素直に体験から得たものが反映した歌詞は僕のなかでもかなり珍しいです。それほど強烈な印象だったのは間違いありません。おっしゃる通り、とにかくいろんな角度で象徴的ですよね。

 かつてSonic Youthというバンドのスタジオがあったムーレイストリートという通りに行ったときは興奮しました。いわゆる聖地巡礼ですね。嬉しくてなんだか変な感じになってしまい、なぜかむしろ足早に立ち去ったことをいまになって後悔しています。Sonic Youthにはその通りの名を冠した『Murray Street』という大好きなアルバムがあります。制作中に911が起こって、メンバーが走って逃げたというエピソードがあるのですが、歩いてみると確かにグラウンドゼロ跡地はかなり近かったです。

 これまで訪れた場所で思い出深かったのは、やはり直近の南インドでしょうか。郊外、都市部、スラム、保養地、色々行きました。とにかく街並みや風景もよかったのですが、人間のあり方が特に強烈でした。ひとことでは言い表せませんが、動物的な感度の高さと知性とデタラメさがごちゃまぜになった暮らしぶりをみていると、当然だけれど近代化にも色々あるんだなと妙な感慨が湧き上がってきました。あとは個、という考え方、死生観の違い、これを空気として感じたのは得難い体験でした。未だによく思い出して考えます。

 ご質問に「いままで」の文脈で旅行ができたら、とありますが、なかなか難しいかもしれません。すでに新しい文脈へと強制的に移行してしまっているような気もしますが、それはそれで楽しめる思考を模索していくことになるのかもしれませんね。

 

 

こんにちは、波多野さん。数年前(おそらく2017年の激歪)からエフェクターボードが2枚に増えていますが、ボードが増えるにあたって新しく導入した機材の詳細を教えていただきたいです。  

(もやしさん)

 

 確かにそのタイミングで足元のボード(ギターのペダルを格納する箱)を2枚にしたはずです。増えたのはLINE 6のM9とt.c.electronicsのフラッシュバック(もっぱらルーパー使用)が入っていますが、実はどちらもほとんど使っていません。どうしても特殊な設定が必要な曲がセットリストに入ったときのひと踏みくらいしか使っていないので、占める空間と働きが見合っていません。かといって外そうにも、突然システム上難しい曲がセットリストに入ってくることもあるので、なかなかお暇をだせません。

 現在はキーボードも一曲の中で弾き分けたりするので、新しい方のボードにはキーボードのダンパーペダルとギターの音を切るヴォリュームペダルが真ん中に堂々たる風格で鎮座しています。完全に演奏の利便性をあげるための増設で、基本的にギターの音に関わる機材は、10年近く変わっていません。

 ちなみに、メインの歪みはFulltone OCDだとよく勘違いされるのですが、実はアンプのFender Super Sonicの歪むチャンネルがメインです。しかも真空管(プリ管)を一本だけ違う種類のものに交換してあるので、現行品では同じ音は出ません。

 機材の話って、なんで楽しいんでしょうね。一種の現実逃避みたいなものかもしれません。

 

 

【Q&A:回答その1】

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 適度な感じで質問の方、頂いております。ありがたいことに音楽に関する話題が多いですが、それ以外も大歓迎です。引き続き、以下の要領でお待ちしております。

hatanohirofumi.hatenablog.com

ぼちぼちと答えていきたいと思います。どうなることやらわかりませんが、ひとまず試運転といきます。

 

 

こんにちは。 先日、ハーメルンの笛吹き男の伝承を改めて読み返したところ、 "笛吹き男は(トランス状態の)子供たちを山の沼に落としていったと思われる"というようなことが書いてありました。子供たちは嘘つきの大人のもとを離れてみんなで幸せに暮らしていると思っていたのでショックでした。 波多野さんはこのストーリーについてどういう気持ちをもっていますか?(伝承上のことでなく、波多野さんの中の物語について) また、物語にしあわせな結末を期待するのは間違っているのでしょうか?

(Kさん)

 

 幼少期、親に買ってもらったル・カインという画家の描いた『ハーメルンの笛吹き男』という絵本を読んで以来、この物語に取り憑かれています。People In The Boxの作品に『Lovely Taboos』という作品があります。ご存知かもしれませんが、「笛吹き男」「市民」「子供たち」というタイトルの3曲が収録されています。

 どこかで話したかどうか、いまでは記憶があやふやなのですが、この作品は当初、ハーメルンの笛吹き男の現代版というテーマで歌詞をつくろうと計画していました。この物語の示唆的かつキャッチーな構造を借りて、新しい笛吹き男の世界を展開できたら、という挑戦でした。ところが、登場人物の3つの視点をそのまま一曲づつに対応させて歌詞を書いていたのですが、伝承に忠実に作っていくなかで、歌詞の印象と音楽との間に乖離が生じ、すり合わせが困難になってきました。最終的には設定を一旦解除して思うままに筆を進めてできたのが『Lovely Taboos』で、曲タイトルがかろうじて名残を残しているというわけです。

 伝承でもいくつかあるとされる結末の内、Kさんのおっしゃる結末は、僕は知りませんでした。制作にあたってノート一冊分になるくらいは下調べしたので、単に忘れてしまっているだけかもしれませんが(笑)。トランス状態の子供たちを山の沼に落としていった。ショッキングではありますが、それはそれでなんとなくあり得るような気もしてきます。笛吹き男はただの善意の男ではありませんしね。

 僕の読んだ絵本の結末は、笛吹き男が子どもたちを山の向こうへと通じる洞窟へと連れていき、そこで幸せに暮らしたというものです。それに加えて、洞窟の扉が閉まった後で、ひとりの足のわるい子どもが洞窟の外にとり残されてしまうというエピソードもついていました。

 最初に読んだときは、蛇足のように思えていたのですが、年をとるにつれて、この足のわるい子どもが取り残されることの重大さというのに気づくようになりました。このエピソードが楔となって、この物語を単純な勧善懲悪や、ユートピア信仰へと傾倒することを防いでいると思います。ご存知の通り、ハーメルンの笛吹き男の伝承は様々な説があり、少年十字軍のことだという話、疫病による大量死の言い換えという話など、いろいろあるみたいですが、物語としてはル・カインの絵本が好みとして一番好きです。
 恥ずかしながら、昔はトリックスターの笛吹き男に憧れたのですが、いまではとりのこされた足のわるい子どもに断然シンパシーを覚えます。

 物語にしあわせな結末を期待するのは間違っているのでしょうか?というご質問ですが、エンターテイメントおいての結末は別として、純粋に物語というものにおいては結末は便宜上の断面のようなものだと僕は個人的に思います。結末にいたるまでと、あるかもしれないその先を区切る断面です。だからハッピーエンドもバッドエンドも、作者(いるとすれば)の性格というか、ざっくりいえば、皮肉に終わらせるか(ハッピーエンド)、誠実に終わらせるか(バッドエンド)の違いな気もします。個人的に良いハッピーエンドは嘘くささがにじみ出ているのが好きです。ひねくれすぎかもしれませんが(笑)。

 

 

こんにちは。悩み事があります。 今日付けの人事異動により前々から苦手だなと思っていた人が目の前の席になってしまいました。案の定、うまく連携がとれず、(経験不足という問題ではなく根本的な相性の悪さ)この一年間がとても憂鬱です。 社会人経験も浅いため、どうやって乗り切ってやろうかと考えています。 何かアドバイスがあれば、考え方の一つとして参考にさせていただきたいです。

(どーちょさん)

 

 なるほど、それは大変ですね・・・。正直、僕はどーちょさん以上に社会経験が浅く、人事異動で苦手な人と組まされるという経験が人生のなかでなかったので、アドバイスできる気がしません。

 一般的にいって、「相性がわるい」という場合、こちらの都合に引きつけて考えることはすべて困難だということだと思うので、相手の良いところを積極的に見つけていく、ということくらいしかないのでは・・・?もし良いところがひとつもなかったら・・・??もうどうしようもありませんね。

 以前、コンビニの深夜でバイトしていた頃、シンナーでラリったまま働く同僚がいて、絡んでくるのも超絶にだるかったので、全無視でほとんどの仕事をひとりでこなしていたのをふと思い出しました。

 半分冗談ですが、僕はほとんどの他人と相性が悪いと思いながら十代、二十代を生きてきました。それでもうまくやろうともがくなかで次第にわかってきたことは、自分とは違うというだけで相手には尊敬する余地がずいぶんあるということです。当たり前かもしれませんが、他人は自分の思いもつかないことを考えています。そのことを楽しめるかどうかが鍵なのではないかと、思ったりしました。

 普通すぎるでしょうか・・・・。大切なのは、それが絞り出したものであれ敬意は態度で伝わるし、そのなかでフィードバックが生まれると、なにかいいことが起きるのではないかと。がんばってくださいね。

【Q&A:募集】

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 ※以下の募集は終了しました。

 神出鬼没のQ&Aをやりたいと思います。

 以前はたまに気が向いたときにこういうことをやっていたような気がします。Twitter上でリプライにリプライで返答する形で行なっっていたと思います(確か)。

 今回はリアルタイムではなく、このブログ上でマイペースに返していきます。ですので、ある程度たっぷりの分量で回答しようと思っています。

 

  • ご質問はこの記事のコメント(非公開)に下さい。設定の上では、はてなのアカウントがなくてもゲスト投稿できるようになっている筈ですが、できなかった場合はツイッターのリプライでください。

 

  • 内容に関しては何でも構いません。音楽のこと、相談、重めのことも軽めのものも、ふざけたものでも大丈夫です。
    回答が被りそうなものや、あまりに公序良俗に反するようなもの、また一言で済んでしまうようなものは、すみませんが回答できかねます。
    そもそも、気のきいた回答ができそうなものしか回答しない可能性もありますので、そこのところはご容赦ください。
  • 掲載したQ&Aは、いずれ質問回答ともにどこかのタイミングで突然削除します。

 

  • 募集期間は4/3、今週の金曜日までとしておきます。

 

それでは、適度に、おまちしております。

 

懐胎した犬のブルース


People In The Box "懐胎した犬のブルース" (Official Music Video)

 

 2011年の東日本大震災とそれに伴う原発事故が起こったとき、僕は一種のアイデンティティクライシスとでもいうべき状態におちいった。それまでに自分が作ってきた歌詞が大きな問題だった。3月の公演が延期となり、2本のライブが4月に持ち越されたものの、過去の自分の作った歌を歌うのが苦痛で仕方がなかった。

 たくさんの人が命を失い、たくさんの人が住む土地を追われることとなった。不誠実が明るみになり、その社会に自分自身が間接的に加担していることも明らかになった。そんななかで自分の歌う歌はといえば、無軌道であるがゆえに本質を言い表している「ように」聴こえる、単純にいえば倫理への配慮に欠けた言葉の連なりに思えた。イメージのままに書きつけた言葉が鋭利な凶器となり、物語という枠組みがやたらと災いを想起させるトリガーとして機能した。

 それはいわば、自分の言葉への不信感が根深く植えつけられたきっかけでもあり、ある意味では物語が自走する危うさ、恐怖、恐るべきパワーを思い知らされたということでもあった。なにより辛かったのは、世界が一変したあとに自信を持って作ったはずの歌を自分自身で真っ向から否定せざるを得なくなったことだった。自分の存在理由とまで思えていたはずの作品の、あまりの強度の無さに、打ちひしがれてしまった。これまでやってきたことはなんだったのだろうと。

 震災以前の作品の歌詞に対して、紆余曲折を経た現在ではとても誇りに思っている。あのむこうみずな鮮やかさは、あの頃にしか作れないものだったと思う。問題は、ほとんどが自分vs世界という構図、例えるなら「子ども」の立場からの視点に終始していることだ。子どもの立場、それは愚かさが許容されるがゆえに無軌道であることも許され、何ならそれを無垢と美化されもするような立場だ。そしてそれは例えばロックバンドと呼ばれる多数のバンドの姿勢として、ありふれたものでもある。愚かさを許容される世界があることで、救われることあるのは間違いない。人は誰もが愚かであることから本質的に逃れられないはずだからだ。一方で、演じられる愚かさはある種の陶酔状態や、麻痺のなかでのみ機能する。裏返せば、自分の愚かさをいちど自覚した瞬間、たちまち陶酔は解除されてしまう。陶酔が解除された位相で世界をみる人のための音楽もまた存在しなくてはならない。そしてなにより僕自身が、また大きな出来事が世界を襲ったとき、また同じように動揺することになってしまう。無自覚な愚かさから逃れられないのことに腹を括った上で、僕は自覚できるかぎりの愚かさへと帰っていくことだけはしまいと思った。なるだけ陶酔を遠ざけようと、冷静を保とうと心に決めた。

 そうした経験が、そのショックの反動が、今に至るまで僕の創作を形作っているすべてだといっても過言ではない。その結果、僕の歌詞はきわめて社会的、もっといえば露骨に政治的な性質を帯びることになった。同時にあれほど怖かった物語という枠組みこそが、ピープルの音楽を党派やスレテオタイプに利用されることから守ってくれている。

 品のない言い方になってしまうけれど、9年前から、いつか必ず訪れる非常時や危機的状況下でも演奏や聴くことに耐えうる歌詞を書くことを心の底で目的としてきた。あの頃とくらべると少しはましなものを作れるようになっているだろうか。少なくとも、アルバム『Tabula Rasa』を聴くのに相応しい世界は今をおいて他にないと思っている。単純化ステレオタイプ化していく表層や外観を拒否することは、とてつもない孤独を伴う。どうか助けになればいいと思う。

 世界ではコロナウイルスによる死者は1万人を超えた。これからも死者は増えることになるだろう。それにともなう人災も日本では起きようとしている。9年前からずっと、同じような問いかけは続いていた。

 

『懐胎した犬のブルース』

 

忘れてしまうだろうね
さっきまで熱っぽく話していたことさえ
日課のコーヒーひとつ、いれることもやめてしまった
冷めきって 固まったシチューのポット

ねえ ボーイスカウト すぐに火を起こして
海をあたためて
懐胎した犬のブルースが聴こえる
ウォウ、ウォウ、ウォウ

 

楽しみ尽くしたら
さよなら友達よ
ぼくを救えないひと
忘れてしまうだろうね
催涙スプレーの昼も
ヒトビトがどんな遠くからやって来たかも

ねえ ボーイスカウト かたく紐を結んで
暴れて 怪我せぬように
明日生まれ変わるから 記憶はいらない
バイバイ

 

ねえ ボーイスカウト かたく紐を結んで
暴れて 怪我せぬように
明日生まれ変わるから 記憶はいらない
バイバイ

ねえ ボーイスカウト すぐに火を起こして
海をあたためて
懐胎した犬のブルースが聴こえる
ウォウ、ウォウ、ウォウ