【Q&A:回答その4】

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質問の募集は今日の深夜24時までとなります。以下の要領でお願いいたします。

hatanohirofumi.hatenablog.com

今日もおもむろにお返事していきます。

こんばんは。 私はPeopleをデビュー当時から愛聴しているしがない公務員(出会った当時は自惚れた大学生でした)です。誠に勝手ながら結婚式でも「笛吹き男」を馴れ初めムービーのBGMに使わせていただ(ry 今世間を騒がせている新型コロナウイルスーー私はある県の保健所で働いて、日々その対応に追われる日々を過ごしています。私は保健師のような専門職ではなく、昨年度たまたま異動してきた事務職員ですが、このような状況に見舞われ、日増しに増える感染者と相談電話の件数、加熱する報道で、本日目の前のかわいらしい新規採用職員を目の前に、つい「あ゛ーー」と叫んでしまいました。。。そうかと思うとクレームの電話で、「保健所はポンコツ」と5回くらい言われて、もう忙しすぎて何も感じずただただ虚しくなってしまいました。 いわゆるPCR検査の検体が出ると、それを取りに行ったり、検査機関に運んだりするわけですが、なるたけ公共交通機関の利用を避けようと、雨の日も風の日も自転車でずぶ濡れになって運ぶこともあります。そんなとき私は大学の時に読んだ志賀直哉のある小説を思い出し(タイトルはど忘れしました)、春雨の中ずぶ濡れになると、「自然」を感じ、「自然」と一体になる感じーーを気持ちよく感じることがあります。と同時にこれが「公」の仕事なんだなぁと自惚れたりしています。 深夜にこのQA募集を見て、波多野さんに何を伝えてたいのかもわからず文字を打っていますが、その、なんだろう、コロナの件ではご迷惑おかけしています。私も東京公演のチケットを今でも手元に置いて、今か今か待ち受けています。Peopleの演奏今すごく聴きたいです。 昨今の状況では公演時期の選定も悩ましいことかと思いますが、私も都合をつけて必ず聴きに行きたいと思っていますので、どうかよろしくお願いいたします。 明日は金曜日、でも電話多いんだろうなぁ、ということでこんな私に一言でも声をかけていただけるとうれしく思います。乱文ですみません。

(LindaKさん)

 

 保健所の事務職員さんということで、降って湧いたこの状況に大変な思いをされているようですね。雨でずぶ濡れになりながら検体を検査機関に自転車で運ぶLindaKさんには感謝の念に堪えません。

 クレームの電話対応もお疲れさまです。文句の矛先を間違えてしまう人というのは必ず一定数存在しますよね。非常時の手近なサンドバッグ探しでそれ以上のものではないので、自動音声だとおもって聞き流すのが良いと思います。あまりストレスをためないよう、ときどきは叫んだりしながら、無理せずできる範囲でがんばってください。

  以前イギリスに滞在したとき、あちらの人がちょっとやそっとでは傘をささないのが驚きでした。天気が変わりやすく、通り雨も多いので、ちょっとぬれるくらいの雨だったら、傘を持ち歩いたりいちいち差したり閉じたりするよりはマシという考えなのかなと思います。たまになら雨に打たれるのもそれほど悪い気分ではないかもしれません。

 

 

質問失礼いたします。ピープルのライブは年々進化を遂げていますが、『Cut Five』以降DVD等の映像作品のリリースは長らく途絶えています。個人的には最近のピープルはライブの映像作品化を敢えてしていないようにも感じられるのですがその実、いかがでしょうか。

(ペルトさん)

 

 おっしゃるとおり、ピープルの演奏も映像作品として観ることのできる演奏からいまでは次第に変化してきており、僕としてもそれが記録として残らないのは勿体ないと思っています。

 そもそもオーバーダビングしてある作品とライブとを比べたとき、僕の演奏にかぎっていってもほとんど違いますし、ピープルはその日限りのアレンジやセットリストというのが非常に多いです。にも関わらず、活動を記録に残すというのが僕らは本当に下手なバンドで(笑)、その日の演奏のことに手一杯で、先のことまで頭がまわっていないというのが実情なのです。個人的にも2017年のリキッドルームでの『激歪』や2018年の『Weather Report』のライブver.などは、終演後になって録っておけばよかったと後悔するもあとの祭り、という有り様です。

 また僕は自分の歌唱や演奏の粗さがどうしても気になってしまうタイプで、繰り返し聴くことに耐えうる演奏になっているかという自問自答が、演奏を記録として残すことをなんとなく遠ざけている側面もある気がします。

 リスナーとしての僕自身はライブ盤がとても好きというジレンマもあり、同じ曲であっても原曲とアレンジが違ったり、コンディションで演奏が違ったりすることを魅力だと思っているので、そうなるとピープルこそライブ盤にもってこいのバンドでは?という結論がどうしても導かれてしまうことは確かです。

 いずれはしっかりと音源なり映像なり、形として残していけたらと頭の片隅にはありますので、どうか気長にお待ちいただければと思います。

 

リチャード・ドーキンス著の利己的遺伝子論にもあるように、我々はただの遺伝子を運ぶ入れ物でしかないと考えております。 そして、中途半端に理性と文明を持ってしまったせいで、生物本来の営みから逸脱した「不自然」な状態にあるのではないかと。 その上で、我々が必死に生きる意味はあるのでしょうか? 面倒臭い質問ですみません。

 (aconitum07354さん)

 

初めまして。 トムくん、ふかふかでかわいいですね。 最近の曲の中で私は「動物になりたい」がとても好きです。 波多野さんの思う「動物」と「人間」の大きな違いは何でしょうか? 歌詞にある「言葉」を持っていることを含め、 何か違いを感じているところはありますか?

うちにはモモンガが7匹います。 呼んだら出てくる子、野性味あふれる子、怖がりの子、いろいろと個性があるように思います。 また、おそらく生や食や生殖に関わる情報交換に限られるのでしょうが、結構鳴きます。 人間の使う言葉や文字とは違って、「建前」や「行間」のない言語なんだろうと感じています。 余計な疑念やら後悔やら受動喫煙のように望まないのに入ってくる情報に惑わされず、 遺伝子の声(私には聞こえません)に従って生きるために生き、何も残さずに死ぬことを羨ましく思います。 同時に人間になり過ぎた私にはできない生き方であることも思い知る、そんなモモンガとの生活を送っています。  

(善きモモ飼いの教会さん)

 

 人間とチンパンジーのDNA配列の差は、馬とシマウマのそれよりも全然近いという話を聞いたことがあります。ちょっと表現として正しいかどうか自信がないですが、遺伝子のなかで言葉に関係する領域は大きくないということですよね。

 善きモモ飼いの教会さんが遺伝子の声、と表現されていますが、動物をみていると、人間には言葉と引き換えに失った領域というのがあるような気がします。うちのうさぎのトムは肉を焼く音がすると、なぜか怯えてケージへと逃げ帰ります。魚群が申し合わせた訳でもないのに一斉に向きを変えたり、勘のいい犬がとんでもなく長い距離を経て飼い主の元へ帰ってきたりと、人間にからすると不思議なことが多々あります。また、蟻や蜂などをみると、それなりに高度な社会を形成するのにも、言葉が必要不可欠ではないことがわかります。

 言葉の力、といいますが、言葉そのものにはどうも信用できないところがあります。発信者/受信者に関わらず、人によって定義も違えば、そもそも時々の己の都合によって定義そのものを変えるのが人間です。厳密さもまちまちで、便利で速いけれど最も大事なときにこそ役に立たないのが言葉だと、僕は思います。

 そういった意味で、僕も善きモモさんと同じく動物が羨ましくなることはあります。彼らは彼らで生きるか死ぬかのハードボイルドな世界に生きていることも承知ですが、シンプルで切実で、いいですよね。いつでも考えるまえに身体が動く彼らはとても美しく見えます。

 さてaconitum07354さんのおっしゃることですが、理屈としてはなんとなくわかる気もします。僕は10代の頃、飼い犬を撫でながら「人間を含むすべての動物は自己増殖をくりかえす精密機械に過ぎない」と嘯き、真理を喝破したような気になっていた時期がありました。おそらく自意識が暴走して変な感じになっていたんだとおもいますが、言っていることはそれほど大きく的は外していない気もします。aconitum07354さんの書かれているドーキンスさんの利己的遺伝子論は知りませんでしたが、ただの遺伝子を運ぶ容れ物、といわれると、そうかもしれない、と思います。

 同時に、それはaconitum07354さんの文面から伝わってくるほどには悲観的なことでもないような気がします。動物の一生が遺伝子を運ぶにすぎないにしても、我々人間は言葉やその他の記号が織りなす複雑さを用いて、その過程をいかようにもデザインできます。自分が自分である、という遊びができるのもまた人間です。もてる選択肢のなかでどう生きるか、その遊びには必死で取り組む価値もあるといえるのではないかと思います。

 そもそも、食卓に出てきたピーマンの肉詰めにケチャップをかけて、「色が鮮やかでいい」とか言い出す変な生き物なんですよね、我々は。