認知

 ある対象を、そうと知らず平面視してしまっていないかどうかは、絶えず見る角度を変えたり、実際に触れてみないとわからない。それができないときは、そういうものだと思う。平面とわかって受け取ってしまえばいいし、奥行きを想像する余地を楽しめばいい。

 散歩していると鳥が、一昔前の電話回線を使ったインターネットの接続音のような微細な抑揚で断続的に鳴いている。姿は見えない。それが実在するけれども死角にいてみえない鳥の鳴き声なのか、頭のなかで勝手に鳴っている音なのかは、判別のしようがない。

 情報として提供されたものにそれと知らずに信頼を寄せる。本当に南極があるのかどうかさえ、僕は確かめたことがないのだ。心許ない感覚器官を振りまわして、会話をする。アンバランスな集合体が片足でとるバランスが、いつまでも続くとは、誰も保証することができない。

 その綱渡りのスリルを、それはそれでわるくないかもな、という気に最近はなっている。

(2018.03.02)