たよりない能動性

 僕のような80年代生まれの人くらいまでだと、音楽をたくさん聴いたことがある人がえらい、みたいな風潮は、かつては確かにあったように思う。たくさん聴くにはまず本や、当時まだ黎明期でデータベースとして貧弱なインターネットで知識を蓄えねばならない。むず痒い話、かくゆう僕もかつてはCDを2000枚以上はゆうに持っていたと思う。個人のレコード屋や通販でないと手に入らないものも少なくなかった。わざわざ電車に乗って遠くまで赴いたり、常識では考えられないような金額を投入したりもする。それでも入手できない聴けないものだってあった。通販で予約しても、3ヶ月後に確保ができなかったと連絡がありキャンセルになることもあった。情報も限られていて、名前だけは知っているが詳細がわからないものもざらにあった。ろくな情報もないなかで、なるだけ廉価に手に入れようと、暇さえあれば中古盤屋を巡っていた。猛スピードで自転車をこぐ汗でTシャツが背中にはりつく感触は今でも憶えている。今思えば、あれが青春だったと言い切ってもいいくらいに楽しかった。とはいっても、音楽を聴くためだけに行われるそのような体を張った涙ぐましい労を思えば、えらい、とはいわないまでも、ねぎらうくらいには讃えてもらっても全くかまわない気がする。

 結果として数多くの音楽を情報として知り、聴いたからといって、それ自体が幸せなことかというと、必ずしもそういうわけではないというのは事実だ。人間関係において、交友関係や人脈が広いことが幸福に直結しないことと、とても似ていると思う。数によって養われるものも当然のようにあるとは思うけれど、それも一定数以上になってくると、個人の指向の領域ではないかと思う。今になって思えば、喫煙者のチェインスモーキングみたいなところもあった気もする。そのものの味がどうこうではなく、そうしないと落ち着かないという、習慣というか、惰性というか。今では音楽は、これも人との出会いと同じで、巡り合わせによる感動がほとんどを占めるという結論に至っている。

 優れたものや、誰にとっても心地よいと思えるものも、もちろん良い。自分から能動的に探しにいって、前面に現れる情報から導き出して得た満足も、もちろんわるくない。けれども、想像を超える感動はほとんどないことに気づく。音楽で膝から崩れ落ちるような感覚を、人はよく忘れてしまう。

 他方で、例えばなんの気なしにつけていたラジオから、なんの変哲もない音楽が流れてきて、いたく感動することがある。それまでどこでも聴けていたような音楽が、そのときは何か違ったように、耳から体に澄んだ水のように浸透していくような感覚。

 その違いを、ただ環境の差や、能動/受動の表面的な話にしてしまっては勿体ない。そのときの感性のあり方の違いが、聴かれる対象が関与しないうえで、反応の差を生み出していることに注目したい。

 状況として、自発的に音楽に出会おうとするときというのは、無意識に前提を条件づけていることが多い。聴きたい音楽の形をある程度具体的に想像して、その形にうまくはまるものを探している。近年は思ったような音楽が見つからない、というストレスはほとんどなくなった。サブスクリプションをはじめとするインターネットでは膨大なデータの統計から、類似と大勢が見傚しているものを提示してくれる。こちらの要求が具体的であればなるほど供給はあまりある。

 一方、後者の場合というのは、必ずしも音楽を欲していたとは限らない。ラジオから流れてきたなんの変哲もない音楽で感動できる心理状態というのは、もしかすると音楽ではなく、音楽のような何かでもよいのかもしれない。例えばキッチンの換気扇から聞こえてくるカラカラ、サラサラという音であったり、風が吹いて葉擦れが窓の外から聞こえてきたり、そういう意図しないものであったとしても、感じることがある感性の状態なのではないかと思う。特定のものを求めてはいないけれど、受容体を通じて入ってくるものをそのまま受け入れられるオープンな状態。

 その違いをまえにして、人間が自分自身で欲しているものを自覚できるという前提でいることは、そもそも無理があるという事実を再確認する。もちろん自発的に音楽を探して聴くことが大好きだけれど、その感動というのはすでに知っている感動をなぞるにとどまっている。自分の変化や状態によって受け取り方は違うという、あくまで些細な楽しみである。同時に、自分の想像の及ばない感動をやはり欲している。これまで幾度も味わってきたそれは、後者のような「感性が開いた」状態のときに向こうからやってくるのだろうと思っている。

 だから、インターネットによって均一に音楽が開かれ、膨大な作品に等しくアクセスできるという、20年前には考えられなかった、狂喜乱舞していてもおかしくはないような状況に、僕が現在なんの感慨も抱いていないというのは、そういうことだと思う。環境という要素は自分の欲する感動とはほとんど関係がなかった。

 振り返って思えば、ここ数年はそういう人体実験を無意識にやってきたような気がする。音楽を作る仕事でありながら、能動的に新しい音楽を探すことをしていない。けれども感性は開きっぱなしだった。結果、新譜/旧譜にかかわらず、自分でが想像できなかったような、でもこれが聴きたかったというような音楽は、向こうからやってきた。あるときは朧げな記憶から、あるときは友人の言葉の静かな熱量から、あるときは不思議なジャケットアートから。そういうことなんだと思う。何が正解で何が間違い、というのは自分のなかにしかない。

 ところで、感性が開いた状態では、それは音楽でなくてもいいのかもしれない、というのは凄く重要な考えだ。文脈から離してみると、前後を逆にした方が自然かもしれない。それは「〇〇でなくてもいいのかもしれないと思えるような状態は感性が開いている」というふうに。

 それは境目を意識することに関係してくる。どこからが音楽で、どこからが音楽でないのか。どこからが映画で、どこからが映画ではないのか。どこからが洋服で、どこからが洋服でないのか。僕はそれをいつも考えてしまう。

 意図しているものと、意図していないものの違いというの容易い。しかし、強い風が開け閉めするドアの音を音楽とするかしないかは、それを受け取る感性に依るわけだから、そうとは断言できない。仮に人間が作るものと、そうでないもの、ということに分類したところで、人間の意識というものの疑わしさ、及び無意識の広大さが反映されることを思えば、作品が全て作者の意図であることはありえないし、意図をこえて一人歩きする余地のあることが創作の素晴らしいところでもある。結局、対象の問題ではなく、自分自身の感性が生活のなかで受容体として開かれていることが、遍在する好きなものを自分へと引き寄せるのだと思う。

(2018.03.04)