8月

 8月になった。いちばん好きな季節。脳がハレーションを起こしている。ハレーションの眩さのむこうにかろうじて見えるのは、僕が重ねてきた夏の記憶。真っ白なシーツのようにひらひらと折り重なって揺れている。鮮やかな緑がじっとりと汗をかいたようにぬれている。草の匂いがブーストされてむせかえる。

 20年前の8月、ちょうど戦後50年だった。50年というのがどれだけの経過なのか、よくわからなかったけれど、ひとつの達成の指標である雰囲気は、風潮として当時あったような気がする。それが何の達成であったのかは、よくわからない。  それが今では戦後70年。終戦よりも前に産まれた人は必ず70歳以上。そうやって人の年齢にあてはめて考えると、50と70というのは同じ数字といえど、かなり違った意味を持つ気がしてくる。これが100、ということになると、さらに様相を異にする。平均寿命からいって、リアルタイムで戦争を体験した人がほぼいないという状態だ。  けれど、そうでなくても70年というの同じようなものかもしれない。安保法案の議論がどんな場であれ言葉があれほど空疎なのも、もう誰も実感として戦争を感じていないからなのだろうとおもう。どれだけ「戦争の悲惨さ」だとか、「人命の重さ」とか言葉にしたところで、実感が伴っていないから、物質的利益を求める人のごまかし、詭弁、嘘のような単純でパワフルで暴力的な言葉に対抗するには明らかに弱い。実際に戦争反対の声が集団的感情論としてわきに追いやられている状況がある。

 さらっと戦争の実感と書いたけれど、戦争の実感、というものはほとんどの場合、言葉になることはないはずだ。戦争のなかで心身に傷を負った人たちが、進んでその体験を言葉にするだろうか。僕はないと思う。言葉にするということはそれを追体験するということに等しく、痛みを伴う行為だからだ。もしも痛みを伴った誠実な言葉がふりしぼるように表現されることがこれまでにあったとしても、それはすでに見えにくくなっている。

 ところで、僕が音楽を作っているなかで最も喜びに感じるのは、「自分の手によって、そこにないものを、あたかもあるようにみせられる」というところだ。言葉も含めて、そこに架空の世界を出現させることができる。そのなかで架空の物語を進行させたりさせなかったりすることができる。この快感というのは絵であれ、映画であれ、小説であれ、ものをつくる人なら誰でも知っている。けれど同時に創作というのは一歩間違えると、嘘になってしまう。というか、嘘なのだ。嘘と創作の境目というのは誰も規定することはできない。けれど、芸術としてパワーがあるかどうか、というのは誰にでもわかる。感動するか、しないか、ということだ。いわずもがな、嘘の匂いが少しでもすると、感動しない。

 その違いというのは、単純にどれだけ真に迫れるかということだと思う。内容は関係がない。現実的とか非現実的とか宇宙的であろうが日記的であろうがほとんど実体験であろうがなかろうが、関係無い。つくる本人がどれだけそれを「ほんとうのこと」として描けるかどうかだ。小手先の技術というよりもどこまで深く存在しないものを観察できるかということだ。

 例えば、人殺しを描くとき、どういう人物として描くか。ほとんどの人が、殺人をしたことはない。人を身体的に傷つけてしまったことはあるかもしれないが手がかりはそれくらいだ。他は想像するしかない。殺人者というのはどういう人なのか。殺すのに理由があるのだろうか。そもそも人を殺してしまうような理由というのはなんだろうか。相手は悪魔のように悪い人なんだろうか。仲間がやられた復讐なのだろうか。殺すときはどうやって殺すのだろうか。その人は銃で殺すのだろうか。銃の重みはどんなだろうか。冷たいだろうか。それとも人を殺す緊張で体温が金属に移って生温かいだろうか。その銃で誰を撃つのだろうか。これから撃たれる相手は怯えているのだろうか。震えているだろうか。一発で命を奪えるだろうか。外してしまい苦しむ相手にもう一発撃ちこむのだろうか。聞いたこともないような呻き声に背筋に寒気を感じるだろうか。相手の表情に浮かぶのは強い憎しみだ。早くこの任務を終えて大好きな奥さんと子供の待つ家に帰りたいと思う。撃ち殺した感触で手がまだ震えているが、敵は悪魔だ、殺されて然るべきだ。食料でも持っていないか身体検査をするとその男の家族の写真が出てくる。子供がにっこり笑っている。自分の子供と同じくらいの年齢だ、写真の裏には「早く帰ってきてね」とメッセージがそえてある。ひとりの子供の父親を殺したのだ。いや、こいつは悪魔だ。しかし写真のこの子供は父親が殺されたと知るとどう思うだろう。悪魔は俺の方だろう。しかし正義はこちらにある、大きい視点で見ると「政治的にやむおえない犠牲」だ。胸を張って帰国するんだ。そして平和な一家団欒に戻ろう。すると居間のテレビから事件のニュースが、通り魔が子供のいる父親を撃ち殺して逃げたらしい。我が子がテレビを指差していう「悪魔だ!人殺しは死刑になってしまえばいい」などなど、

そういう場面が本当にあると想像することから始める。楽しい作業ではないのでテキトーだけど。この後、おそらくこの殺人者は倫理に一貫性がもてなくなって、罪悪感を拭いきれずおかしくなってしまうだろう。

 僕が作り手として知っていることは、自分の感性を総動員して自分が体験したことのないことを想像することは、必ず誰にでもできる。だから、戦争を体験していなくても、それがどういうことかはある程度まで知ることはできる。上記のような体験は、集団的自衛権は相手に攻撃の意思ありと見做した場合は先制攻撃もありうると首相が示唆した以上、可能性として今後あってもおかしくない。これから普通の若い人が根拠の薄い大義のために、どんな形であれ殺人を犯して心を病んでしまうことなることは割に合わないと僕は単純に思う。

 戦争についてはまだ言及されていない部分、歴史的叙述だけではない側面を立ち上げてこそ、やっと現実的な議論に高めることができると思う。

 現代社会と人間の関係は、仕組みのうえで卵とひよこの関係に似ていて、「人間のための社会」と「社会のための人間」という逆転したふたつの場面があるように思う。そのふたつの側面が表裏一体となって進行しているという、あくまでイメージ。

 ただ、今は「社会のための人間」という考え方が議論の上で先行しすぎている気がする。体制がそう主張するのはある意味当然といえば当然ではある。そこに僕は私情や別の意図も感じるけれど、それはそれとしてもう一つの論理、つまり「人間のための社会」の方のをしっかりと大衆側が立ち上げないとまずは議論としてバランスが悪いのではないかと思う。

 はあ。近況も書こうと思ってたら朝になってしまった。