躁的/鬱的

 資本主義が宿命的にもたらす富の格差は、これから人を躁的なありようと鬱的なありようの二分化をさらに加速的に広げていくのだろうと思う。それは実のところ対称的なようで対称的ではない。というのも、躁的な振る舞いは野心や攻撃として可視化されることはあっても、鬱的なありようは構造的にも原理的にも可視化されないからだ。つまり、表面的には世界は躁的な状態で埋め尽くされていくのだと思う。